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きことわ/流跡 [著]朝吹真理子

[評者]鴻巣友季子(翻訳家、エッセイスト)

[掲載]2011年01月30日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■夢と現実溶ける、時間のトンネル

 昨年雑誌に掲載された「きことわ」を読み始めてすぐに、際立った才能の出現に慄(おのの)いた。
 『きことわ』は、子供のころ葉山の別荘で共に夏をすごした「貴子(きこ)」と「永遠子(とわこ)」が25年を経て再会するという、それ「だけ」の話だ。貴子は別荘主の娘、永遠子は管理人の娘。日付のない夏の日々があり、部屋に射(さ)す光の推移が時の経過をしるす。センセーショナルな出来事は何一つ起きない。それでいて読者は自分の記憶の最古層を揺り動かされるような不穏さを覚え、と同時に、5億数千万年前から続く生命の時間の壮大さを一瞬にして身の内に感じるような、ふしぎな体験をするだろう。
 冒頭で永遠子が見る夢に始まり、作中では、頻繁に夢と現実がとけあい、人物が入れ替わり、記憶が迷子になる。だれが思い、口に出したことだか、わからなくなる。過去の自分と未来の自分が見つめあう。ときに「ほんのわずかな間に何億もの時間が永遠子の身体を通りぬけて」いき、あるいは10行足らずの間に、祖母、母、永遠子、その娘4代の繋(つな)がりと生のきらめきと老いが、髪をとかす行為の中に鮮やかに描かれる。本作中では「瞬間と永遠とがもつれてふとしたうちに百年千年と経つ」ようである。
 「本は読んだそばから記憶に転じる。そんな面影を人は本の題名で呼んでいるのだ」と言った英国の古い批評家があるが、恐らく『流跡』は初めからその「面影」であることを目指したのではないか。最初に、いっかな本を読み進められない人物が出てくる。その本の中から突然「くにゃくにゃ」した身体が現れて歩きだす。それはいつどことも知れぬ時空を通りすぎ、船頭になり舞人になり妻子あるサラリーマンになり女になり、最後には文章の書き手となったようでもある。ここには、クラシックな物語性を排し、ポストモダン以降の自己言及的な結構をもつ現代的なスタイルと、実に古代的な語りが共存している。それは「火焼前(ひたさき)」「誘(おびか)れて」といった古風な語彙(ごい)を指すのではない、ナラティヴに「全知のわたし」という個人性が導入される以前の、地霊が語っているような読み心地が混じる文章なのだ。
 これまでの朝吹真理子の作品の特徴をあえて一言でいうなら、それは「無時間」ということになるかもしれない。始めも終わりもない茫洋(ぼうよう)たる時空間。あらゆる夢の形がある。内田百けんの『冥途(めいど)』、ボルヘスの「円環の廃墟(はいきょ)」、タブッキの『夢のなかの夢』などの手触りと胸騒ぎを彷彿(ほうふつ)とさせる夢の数々。読むうちに、古代から生命が共有する記憶のアーカイヴにアクセスし、個体というものがほどけて「ただ水に押し流されてゆくだけの生体」(『きことわ』)になった気がした。無限へと潮に引かれていくような、このめくるめく心もとなさこそが、朝吹真理子の核心であり魅力ではないか。奇跡のような時間のトンネルを、あなたは何度もくぐることになるだろう。
 〈評〉鴻巣友季子(翻訳家)
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 『きことわ』新潮社・1260円、『流跡』同・1365円/あさぶき・まりこ 84年生まれ。慶応大大学院博士課程在籍。2009年のデビュー作「流跡」で10年、ドゥマゴ文学賞。「きことわ」で今年1月、芥川賞受賞。

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