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はじめの穴 終わりの口 [著]井坂洋子

[評者]田中貴子(甲南大学教授)

[掲載]2011年01月23日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■静かに生を刻みつけるために

 ことん。小さな硬い玉が、お腹(なか)の下のほうでかすかに鳴る。気にしないで書き物をしていると、ささっ、と首筋を撫(な)でてゆく小さな風を察する。いつもの生活。なのに、こんな感じを抱くのはなぜだろう。まるで、日常と日常を飛び越えるとき、ふと下を見たら、暗く大きな穴がぽっかり口を開けているような、そんな感じ。ああ、きっと、井坂さんのエッセーを読んだからだ。
 誰もが生活に埋没して、見て見ぬふりをしている物事に、井坂さんはどうしてこんなに目を向けてしまうのだろう。日々のごく小さな営みのなかに、古い友人との交流に、そして飼猫の死に、彼女の、物事の襞(ひだ)を言葉でこそげてゆくようなまなざしがある。それはきらりと光る才気と評するより、黒い猫が部屋の片隅からゆっくりねめつけるような、不思議な力に満ちているといったほうが適切である。
 各章には、冒頭に内外の詩人による詩が引用されて、それにたぐりよせられるようにエッセーが続く構成となっている。それらの詩は、詩人である井坂さんの人生に微妙に影を落としているものだ。この、詩と文章との境界線が曖昧(あいまい)に溶けているところがいい。
 本書にはまた、死の気配が漂ってもいる。それは不吉なものではない。人間は何か大きな場所からこの世にやってきて生涯をすごすが、死んだら再び、自分が来た場所に帰ってゆくのだ、と井坂さんは言っているように読める。宗教的な意味ではなく、井坂さんの人生の中で獲得された世界観なのだろう。人は死から逃れられないが、だからといって悲観したりする必要はない。みんないつか帰る日のために、静かに、しかしきちんと生を刻みつけることが大切なのだ。その一刻一刻を大事にするためには、お腹の下の「ことん。」という音に気づく人でありたいと思うのは当然だろう。
 個人的には飼猫コプーの最期と井坂さんの祖父である小説家・山手樹一郎の思い出が印象に残った。高橋千尋のちょっと不気味な挿画も楽しい。休日にゆっくり味わいたい本である。
 評・田中貴子(甲南大学教授・日本文学)
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 幻戯書房・2940円/いさか・ようこ 49年生まれ。詩人。『地上がまんべんなく明るんで』で高見順賞。

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