書評・最新書評

私の松本清張論―タブーに挑んだ国民作家 [著]辻井喬

[評者]保阪正康(ノンフィクション作家)

[掲載]2011年01月23日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■近現代に対する不信、明確に指摘

 私論だが、著述家の業績評価は三つのベクトルを持つように思う。同時代的褒貶(ほうへん)、蓋棺事定、歴史的評価。棺を履うての声望が整理され、やがて歴史的な存在にと落ち着く。松本清張死して二十年、その残した作品の量と多様さゆえにそれぞれのベクトルの幅の広さに幻惑されてなかなか歴史的な存在への道筋もつけ難い状況にあった。
 著者があえて「私の」と冠して著した本書にはその道筋の方向性が示されている。清張文学と松本個人の作風やその目の位置、近代日本文学の中の独自の系譜などを示唆的に書き留めたという意味だ。その示した方向性や整理のため必須な要件を詳述してはいない。それは「読者のみなさん」でと著者自身記しているが、もっとも重要な方向性は著者の用いる「集合的無意識」という語にある。ユングの用語を著者独自の理解で示すのだが、簡単に言うと社会的タブーの「暗黙の了解」である。近現代の政治権力は、この「集合的無意識」を巧みに利用してきたと著者は分析する。
 ところが清張はこの暗黙の了解からは「自由な作家」であったと位置づける。清張文学のもつ特質はもともと平和主義、平等主義という日本の歴史に流れる民衆の感性と一体化していたがゆえの大衆性であり、社会派だったとの論はいずれ「歴史的評価」の骨格になると予見される。近現代に対する不信は清張史観ともいえるが、そのことをこれほど明確に指摘した清張論がなかった。さらに著者は清張作品は近代日本文学の欠落部分を補う役割を果たしたと見る。「人間の心の葛藤を中心に描く」明治以後の純文学に、清張は推理小説の形で、「社会の腐敗や権力の横暴、強者の非人間性」に正面から取り組んだことは特筆されるというのである。
 それゆえに他の作家(三島由紀夫、大岡昇平、平林たい子、司馬遼太郎など)との対比、対立、あるいは違いの説明は説得力をもつ。著者が意図しているのは、各作家の清張観を通して彼ら自身の文学観、歴史観を浮かびあがらせることだ。清張はリトマス試験紙でもある。
 評・保阪正康(ノンフィクション作家)
    *
 新日本出版社・1575円/つじい・たかし 27年生まれ。詩人、作家。セゾン文化財団理事長。

関連記事

ページトップへ戻る