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黄金の夢の歌 [著]津島佑子

[評者]柄谷行人(哲学者)

[掲載]2011年01月09日

[ジャンル]文芸 国際

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■胸の底に流れる、定住以前の記憶

 私はこの作品に、久しく小説に対して抱いたことのない興味を覚えた。一見すると、これは、キルギスや内モンゴルへの観光旅行記である。とりたてて事件はないし、物語性もない。淡々たる記述の流れがあるだけだ。しかし、読了すると、それらが構造論的に組み立てられていることがわかってくる。
 この作品は三つの層からなっていて、それぞれ、記述の様態が異なっている。第一の層は、一人称(わたし)および二人称(あなた)によって語られる。「わたし」は父親が青森出身であるため、ツングースの末裔(まつえい)であると感じ、また、アイヌやさまざまな遊動民に親近感をいだいている。しかし、この層で語られるのは、個人的な動機よりもむしろ、近年のキルギスや内モンゴルの状況、つまり、かつての遊牧民が国家やネーションのもとに従属させられ、また、独立してもなお政治的な混乱の中にある状況である。
 第二の層は、一人称や二人称を通して語られてはいるが、事実上、三人称によって語られているといってよい。史料からの直接の引用も多い。つまり、ここでは、ユーラシアにおける古代からの遊牧民とその歴史が客観的に語られる。ツングース、突厥(とっけつ)、匈奴、モンゴル、スキタイ、マケドニア……。通常の世界史では、この地域にはめまぐるしい国家や民族の興亡があったように書かれている。しかし、それらは遊牧民部族の離合集散によるものであり、基本的に同一的な世界としてある。
 第三の層は、いわば、非人称によって語られる。そして、これがこの作品の核心部分である。表題でもある「夢の歌」は、オーストラリアの先住民が伝えてきた物語である。そこには遊動的な狩猟採集民時代の記憶が保持されている。「わたし」は、キルギスや各地の遊牧民にもそれがある、と考える。彼らは今や定住化を強いられ、国家やネーションに吸収され分断されてしまっているが、遊動民時代の記憶が消滅することはない。それは誰もが胸の底に隠し持つ、なつかしい、しかし、その正体がわからない何かとして残っている。
 「夢の歌」は実際の歌というよりもむしろ、見知らぬ男の子らの声を通して出現する。その中には、マケドニアの男の子(アレクサンダー大王)もいる。また、それは、「トット、トット、タン、ト」という騎馬の蹄(ひづめ)の音として、唐突に、かつひんぱんに出現する。これはまさに非人称的であり、「夢の歌」がノスタルジーではなく、「抑圧されたものの回帰」(フロイト)としてあるということを示している。ちなみに、この音はかつて青森出身の作家が書いた「トカトントン」という音を想起させる。それが世界を一挙にネガティヴに変容させるのに対して、逆に、「トット、トット、タン、ト」は世界をポジティヴに反転させようとする。津島佑子という小説家以外に、このようなことを書ける者はいない。
 〈評〉柄谷行人(評論家)
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 講談社・2310円/つしま・ゆうこ 47年生まれ。作家。『夜の光に追われて』で読売文学賞、『風よ、空駆ける風よ』で伊藤整文学賞、『火の山——山猿記』で谷崎賞・野間文芸賞、『笑いオオカミ』で大佛次郎賞。

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