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歌集 蝉声 [著]河野裕子

[評者]穂村弘(歌人)

[掲載]2011年08月28日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■〈私〉自身の肉体を離れた眼差し

 『蝉声』の読みは「せんせい」。昨年亡くなった河野裕子の遺歌集である。
〈髪も眉もまつげも脱けますよ それぢやあ私は何になるのか〉
 抗癌剤(こうがんざい)の副作用を説明されたときの短歌だろう、と想像はつくのだが、ここにはそのような現実の枠組みを超えた衝撃が表現されている。「それぢやあ」の前の一字空きには、一瞬絶句した「私」の息遣いが織り込まれているようだ。
 「私」が「私」でなくなってしまう不安のなかで、目の前の小さな日常はそのかけがえのなさを増す。
〈川上の水は小さく光りをりそこまで歩かう日の暮れぬうち〉
 歩いたからどうなる、ということはない。この歌には誰も出てこないし、何も起こらない。だが、不思議なことに、ほんのささやかな歩みの中に一生の時間と想(おも)いの全てが凝縮されているように思えるのだ。
〈蝋燭のひとつ光にもの食へば家族のひとりづつの顔の奥ゆき〉
 良くない譬(たと)えかもしれないが、最後の晩餐(ばんさん)めいた臨場感が伝わってくる。家族で共にするこの一回の食事の特別さを「蝋燭のひとつ光」が強めている。
〈渓谷の空より鷂が見てゐるは胡麻ひとつまみ程のバスを待つ人〉
 ここには既に〈私〉自身の肉体を離れた眼差(まなざ)しの獲得があると思う。この直前には〈鷂(はいたか)だ、いや大鷹だらう室生寺にバス待つ四人に混じりて見上ぐ〉という歌があり、見上げるものと見下ろすものとの視点が鮮やかに切り替わっていることがわかる。
〈八月に私は死ぬのか朝夕のわかちもわかぬ蝉の声降る〉
 「八月に私は死ぬのか」という呟(つぶや)きが身に迫る。我々は自らの最期の季節を予(あらかじ)め知ることも選ぶこともできない。河野裕子が亡くなったのは八月十二日の夜だった。
    ◇
 青磁社・2800円/かわの・ゆうこ 1946~2010。歌集に『桜森』『母系』『葦舟』など。

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