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アイデンティティと暴力―運命は幻想である [著]アマルティア・セン

[評者]姜尚中(東京大学教授・政治学、政治思想史)

[掲載]2011年10月02日

[ジャンル]人文

表紙画像

■「単一帰属」の幻想を打ち砕く

 グローバル経済の格差と貧困を温床とするテロと暴力の連鎖。この、それこそグローバルなテーマにどう向き合ったらいいのか。
 本書は、ノーベル経済学賞受賞のセンによる渾身(こんしん)の処方箋(しょほうせん)である。そのキーワードは、アイデンティティーだが、本書が心打つのは、センが自らのアイデンティティーをめぐる「生体解剖」的な分析を通じて、アイデンティティーの複数性と「選択」の必要を説いていることにある。
 この揺るぎない信念から、センは、暴力への誘因となる「単一帰属」のアイデンティティーの幻想を打ち砕こうとする。その一つが、狭隘(きょうあい)な利己的功利主義に基づく「合理的愚か者」の幻想だ。これは、一切の個別的なアイデンティティーを消し去り、人間をただ欲望機械のような利己心だけで動く「普遍的な」アイデンティティーに還元しようとする。このような還元主義を代表するのが、新自由主義的な市場原理主義の幻想だ。
 これに抗(あらが)うようにテロや暴力に走る宗教的原理主義があり、そしてより知的な意匠をこらした還元主義的な単一アイデンティティーの幻想がメディアや学術の世界を闊歩(かっぽ)している。マイケル・サンデルに代表されるような共同体主義(コミュニタリアニズム)と、ハンチントンの「文明の衝突」論だ。両者とも、人間と社会を、「共同体」と「文明」という単一のアイデンティティーに還元し、アイデンティティーの複数性と選択の自由を否定する点で共通している。これらもまた「運命」としてのアイデンティティーという幻想を分かち持ち、目に見えない暴力に荷担(かたん)していることになる。
 センの共同体主義の解釈などには異論もあるかもしれない。しかし、本書は、アロー以降の社会選択論・厚生経済学とともに、ロールズ流の公正としての正義や自由論を受け継ぐセンの信仰告白にも近いマニフェストとして読み応えがある。
    ◇
 大門毅監訳・東郷えりか訳、勁草書房・2205円/Amartya Sen 33年生まれ。ハーバード大教授。

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