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評伝 野上彌生子―迷路を抜けて森へ [著]岩橋邦枝

[評者]田中貴子(甲南大学教授)

[掲載]2011年11月13日

[ジャンル]文芸 ノンフィクション・評伝

表紙画像

■隠された「裏面」掘り起こす力作

 実は、私の野上彌生子に対するイメージは、「戦争に協力しなかった作家」や、「社会問題を描く硬派」といった文学史的記述の域を出なかった。しかし、本書読了後、そのイメージはくるりと変わってしまったのである。
 野上の夫が謡曲研究者として名高い豊一郎であること、60代後半で哲学者の田辺元と「恋」をしたことにゴシップ的興味をひかれ手に取ったのだが、著者が残された日記と書簡から浮かび上がらせた野上の生涯は、人間の多面性を痛感させるものだった。
 夫の師である夏目漱石の世話で作家デビューを遂げた野上は、「自分の絶対に排斥しなければならないもの」は社交、冗語、睡眠不足、飽食、家事的ごたごたであると日記に綴(つづ)る。立派な心がけだが、それがかなうためには二人のお手伝いと夫の家事協力が不可欠だった。職業作家となった野上はしばしば軽井沢の山荘に籠(こ)もったが、出版社との交渉は東京にいる夫に任せ、自分はひたすら勉強と執筆の日々を送ったという。
 明治生まれの女性が、知的生活を送りたいがために結婚を選択し、しかも「凡作でも不出来でも、書けば活字になった」。原稿持ち込みを繰り返し、自力で流行作家にのし上がった林芙美子に比べれば、恵まれすぎといってよい。苦労知らずのお嬢さん奥さん、と批判するのはたやすいが、著者は不用意な価値判断を控え、あくまで冷静に野上の隠された一面を掘り起こし記述してゆく。
 ただし、著者が野上の「裏面」を的確にとらえ、評している箇所は随所に見られる。戦争ファシズムに荷担(かたん)しなかったことについて、野上の裕福な実家の協力もあり疎開先で生計の心配がなかった点をあげ、「特権的な境遇にガードされていた事実を、けっして見落としてはならない」と記す。野上は、食ってゆくために戦争に協力せざるを得なかった文学者の存在には鈍感だったのである。
 人に使われたこともお金に困ったこともない野上が、戦後も貧困者を差別視していたことも、著者は容赦なく指摘する。上層階級の視線を無自覚に持ち続ける野上は、田辺元から東京の「名流夫人のポーズ」を感じると言われても気にする気配がない。この鈍感さが、惑いなく愚直に書き続けるという点において後に野上の美質となったとする著者の評にはなるほどと思う。また、上層階級だからこそブルジョアを描くことができた希有(けう)な作家である、という言も的を射ていよう。
 「もんだいは幾つになつたではない。幾つになつても書きつづけることである」。この野上90代の言葉の背後にあるものをえぐり出した力作である。
    ◇
 新潮社・1890円/いわはし・くにえ 34年生まれ。大学在学中、「文芸」の全国学生小説コンクールに当選。著書に『浅い眠り』(平林たい子文学賞)、『伴侶』(芸術選奨新人賞)、『浮橋』(女流文学賞)、『評伝 長谷川時雨』(新田次郎文学賞)など。

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