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60年代のリアル [著]佐藤信

[評者]中島岳志(北海道大学准教授・南アジア地域研究、政治思想史)

[掲載]2012年02月05日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■連帯呼ぶ「肉体感覚」の手ごたえ

 著者は1988年生まれの大学院生。60年安保闘争や全共闘運動の話を聞いても「全く実感はわいてこない」。
 著者は50年前の若者を見つめながら「同年代の者として、共感できるのか、できないのか」を問う。資料をかき分け、当時の若者を追体験した結果、彼/彼女らが求めていたものは、現代の若者とも共通する「肉体感覚」だったのではないかという結論に至る。
 当時の学生のデモ隊は、スクラムを組み、シュプレヒコールをあげながらジグザグに走った。そこに加わった個人は、次第に隊列全体に溶け込んでいく。どこまでが自分で、どこからが他者なのかは不透明。心に宿った疎外感から解放され、実存のリアルな手ごたえが得られる。
 ここに「肉体感覚」を通じた「連帯」への希求が生まれる。受験勉強で他人と競い合ってきたバラバラの個が、運動によって手を取り合い、一体感を獲得する。他者とつながり、感覚に訴えることで、存在を確認しあう。そんな運動は、あらかじめ政治的な「成功」から見放されていた。
 彼/彼女らの「正しさ」は政治の中にはなかった。徹底的に皮膚を擦りむきながら権力にぶつかる「肉体感覚」そのものが「正しさ」だった。そして、その「正しさ」は必然的に手触り感のある暴力へと傾斜していった。この若者と同じ「肉体感覚」を求めたのが三島由紀夫だった。彼は全共闘に対して肉体的共感を抱き、割腹によって、究極的な肉体の露出を実現した。
 しかし、「リアル」のあり方は、闘争の中で変質する。安田講堂攻防戦では火炎瓶が飛び交い、機動隊はガス銃で狙い撃ちした。これはゲバ棒とは異なる脱肉体化したゲーム的暴力だった。結果、「情動的な塊」は「冷徹なバラバラの銃弾」へと解体され、あさま山荘事件へと行きつく。
 個は肉体で世界と切り結ぶのか。60年代のリアルは、若者の皮膚感覚を刺激し続ける。
    ◇
 ミネルヴァ書房・1890円/さとう・しん 88年生まれ。『鈴木茂三郎 1893—1970』

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