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遅い男 [著]J・M・クッツェー

[評者]奥泉光(作家)

[掲載]2012年02月19日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■小説に生命を与える脈動とは

 すぐれた小説には独特の脈動がある。読者はこの脈動に同調することで活気や元気を与えられる。それはストーリーが暗い明るいといったこととは直接の関係はない。どれほど陰惨で救いのない物語であっても、脈動に触れて読者は生気づけられる。では小説に生命を賦与する脈動の正体は何か? 『遅い男』はこの問いを考えるに好適のテクストといってよいだろう。
 オーストラリアに住むフランス系の初老の男が交通事故にあって片脚を失う。それまで孤独に充足していた男はにわかに家庭を欲しはじめ、クロアチア移民である介護士の女性とその子供たちに愛情を抱いた結果、相手家族を巻き込んでひと騒動持ちあがる……。ここにある物語自体は殊更暗いわけではないが、明るくもなく、「老い」や「介護」といった問題に関心がない人にとってはむしろ退屈であるかもしれない。しかし本作品には退屈とは正反対の活気があふれている。それはここに集められた言葉が、複数言語の衝突が生み出すエネルギー場のなかで、移民と根(ルーツ)の問題、贈与と支配の問題、複製芸術論、小説論、といった多様な問題群を呼び込みつつ、いきいきとした「声」となって響くからである。それらの「声」が小説に生命を与えるのだ。
 しかも途中、当の小説を書きつつある老齢の女性作家(なんて奇妙で魅力的なのだろう!)が登場するに及んで、メタフィクションの形をとって進行しはじめる一篇(ぺん)には、作家と主人公との、深刻でもあり可笑(おか)しくもある対話の場に、次々と言葉が呼び寄せられていく様子が描かれる。二人の「共同作業」でもって小説が生成していく現場に立ち会うことで、小説という生き物の脈動が読者にはよりはっきりと感じられるだろう。
 単純な読みやすさにつかず、小説の脈動を損なわずに再現しようとする訳者の高い志にも敬意を評したい。
    ◇
鴻巣友季子訳、早川書房・2100円/J.M.Coetzee 40年生まれ。南アフリカ出身のノーベル文学賞作家。

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