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ジョン・アーヴィング「あの川のほとりで」書評 半世紀の逃避行、物語の希望

評者: 朝日新聞読書面 / 朝⽇新聞掲載:2012年03月04日
あの川のほとりで 上 著者:ジョン・アーヴィング 出版社:新潮社 ジャンル:小説・文学

ISBN: 9784105191139
発売⽇:
サイズ: 20cm/380p

あの川のほとりで〈上・下〉 [著]ジョン・アーヴィング

 アーヴィング待望の新作は、ニューハンプシャー州の山の奥、ツイステッド・リヴァーと呼ばれる川を舞台に幕を開ける。丸太流しを手伝っていた少年が川でおぼれて死ぬ。それが予告であるかのように、次々と人が死んでいく。母が、恋人が、息子が、父が。濃密な死の気配が物語には終始つきまとう。
 主人公ダニエルは、コックである父ドミニクの愛人を熊と間違えてフライパンで撲殺してしまう。彼女が執念深い保安官の愛人であったことから、二人の半世紀に及ぶ逃避行がはじまる。名前を変えながらアメリカ各地を転々とした後、ついにはカナダのトロントに辿(たど)り着く。
 逃亡しながらもダニエルは書くことを学び、作家として名をなす。結婚して子をもうけ、離婚し、子を失う。しかし単なる悲劇ではない。ヴォネガットやカーヴァーらをはじめ、多くの出会いがダニエルを成長させるだろう。
 物語の途方もないスケール感は、複数の、数十年にも及ぶ強い感情の持続によって支えられる。ダニエルの母への思慕や死んだ息子への喪失感、ドミニクとケッチャムの奇妙で固い友情、ケッチャムが「左手」にこめた思い、そして保安官の執念。そう、「宿命」とは、持続する感情の別名なのだ。
 立体的で緻密(ちみつ)な細部は、まるで精巧な箱庭だ。女たちはみな男勝りの巨躯(きょく)と怪力を誇り、男たちはそんな女をめぐって争う。息子は“父殺し”を目論(もくろ)むどころか、いつも父と同じ女を好きになる。アーヴィングの小説にしばしば登場する「墜落」のテーマや、災いをもたらす車(青いムスタング)の存在が象徴的な奥行きをもたらす。
 終盤、物語がついに自分自身を語りはじめる眩暈(めまい)のような瞬間に至って、私たちは気づくだろう。希望を語ることが物語なのではない。物語そのものが希望なのだ、ということを。
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 小竹由美子訳、新潮社・各2415円/John Irving 42年米国生まれ。作家。『熊を放つ』『ガープの世界』