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出会い [著]ミラン・クンデラ

[評者]奥泉光(作家)

[掲載]2012年03月18日

[ジャンル]文芸

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■母国語の外から新世界を眺める

 旧チェコスロバキア出身で、のちにフランスに亡命したミラン・クンデラは、『不滅』などの傑作を書き、世界中に読者を持つ作家であるが、芸術評論についても定評がある。本書は二〇〇九年、クンデラが八十歳になる年に出版された評論集の翻訳である。
 ここではベーコンの絵画、ヤナーチェクのオペラといった多様な対象が扱われているが、中心はやはり小説であり、「ある芸術家が他の芸術家について語るとき、その芸術家はいつも(間接的に、遠回しに)じぶん自身について語る」と述べられているように、何を論じても必ず自身と小説との関係が問題になる印象がある。
 たとえばベートーベンについての断章。フーガをソナタのなかに導入することで、ベートーベンはバロック時代のポリフォニーと古典派の音楽とを統合し、「ヨーロッパの全音楽の相続者になることを夢み」たと著者が書くとき、ラブレー以来の口承文芸に根を持つ小説と、語り手が消失した十九世紀リアリズム小説との統合が考えられているのは疑えなく、著者こそがヨーロッパ全小説の相続者たらんとする者だ、と読む誘惑に駆られる。またベートーベンの夢が実現したのは、「モダニズムのもっとも偉大な作曲家」であるシェーンベルクとストラヴィンスキーにおいてであると書くとき、二十世紀モダニズム小説において、ヨーロッパ小説は一つの完成を見たのであり、自分はその正統な後継者だとの思いがあるとも理解できる。
 文学史を見渡す眼(め)の確かさに支えられた、作品論、作家論はどれも鋭利で刺激的だ。一例のみあげるならば、「偉大な小説の主人公には子供がいない」のは、人間を完結した存在として定着させようとする小説の精神がそうさせるからなのだと論じ起こして、登場人物が「束(つか)の間の輝き」を放つだけのガルシア=マルケス『百年の孤独』は、小説の時代に決別を告げる作品なのだと指摘したりする。
 しかしこれら魅力的な各論以上に印象づけられるのは、著者の小説への揺るがぬ信頼である。新しいものなど本当にあるのか? といったポストモダン的懐疑や冷笑と著者は無縁である。しかしそれは何故(なぜ)なのか? 一つは彼がキャリアの中途から仏語で書きはじめたことがあるだろう。国民国家の言語——母国語に宿命的に密着せざるをえない小説家が、異質な言語を通じて世界を眺めるとき、新たな美の形式や認識の可能性が眼に映る、そんなことがあるのかもしれない。その形式がもはや私たちの知る小説ではないのだとしても。いずれにせよ作家は絶えず母国語の「外」に出ようと努めなければならない。そうあらためて確信される。
    ◇
 西永良成訳、河出書房新社・2520円/Milan Kundera 作家。29年、旧チェコスロバキア生まれ。68年以後、著作は国内で発禁。75年にフランスへ亡命し、現在はパリで仏語による執筆を続ける。著書に『存在の耐えられない軽さ』『笑いと忘却の書』など。

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