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時は老いをいそぐ [著]アントニオ・タブッキ

[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)

[掲載]2012年04月01日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■過去との苦い和解にじませ

 タブッキが亡くなってしまった。三年前に『イタリア広場』、昨年は自作批評『他人まかせの自伝』が出版され、我々日本の愛読者は充実した数年を送っていたのだったが。
 一般にイタリア文学の代表とされるタブッキだが、作品はポルトガル語やフランス語でも書かれる。その意味でタブッキこそ「ヨーロッパ文学者」と呼ばれるにふさわしい。
 実際、九つの短編をまとめた本作にも、“ドイツ訛(なま)りのフランス語”や“クロアチアのリゾート地”、“ニューヨークで回想される、モスクワでの元ハンガリー軍将校と元ソビエト軍将校の邂逅(かいこう)”などが次々と出てくる。
 それらの要素はすべてヨーロッパ史の濃厚な記憶をまといつかせ、悔いをともなった懐古の情と、そうでしかあり得なかった過去との苦い和解をにじませて存在する。
 多種多様なヨーロッパ人たちの声は異なる時制、話法、感情によって語り分けられ、しかし一文ずつ重ねられて短編ごとの小宇宙に同居するが、もちろんそれはタブッキの高度な技術と繊細さゆえである。
 例えば、セリフをカッコでくくらない間接話法の多用によって、同じ言葉が語り手の地の文にも、誰かの発話にも見える。それはまるで複数の勢力による領土の奪いあいのようだ。誰が語っているかをめぐって、せめぎあいが起きるのだから。
 やつれた、生気を失った、すべてが蒸発してしまった、といった単語が鏤(ちりば)められた本作は、あらゆる紛争に倦(う)み疲れたヨーロッパ、特に東欧の荘厳な衰退をたえず連想させる。しかし文のレベルでは読む毎(ごと)に生々しい領土の分裂、再統合がやまない。個人がきしみあい続けるように。
 だからこそ本作は、甘いノスタルジーの衣をまといながら、衝突の力を今なお糧とするヨーロッパの現在そのものではないか、と故人の見事な幻術に重いため息が出る。
    ◇
 和田忠彦訳、河出書房新社・2310円/Antonio Tabucchi 1943〜2012。現代イタリアを代表する作家。

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