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母の遺産―新聞小説 [著]水村美苗

[評者]松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学)

[掲載]2012年05月13日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■娘の苦しみ含め、三代の大河小説

 最近は嫁姑(しゅうとめ)よりも、実の母娘の関係の方が難しかったりするようだ。昨今話題の「墓守娘」についての本などを読むと、切実にそう思ってしまう。老後は息子よりも娘に見てほしいと願う親が増えているようだし、自らは果たし得なかった夢を思いきり娘に押しつけて、過干渉を続ける母親もいる。本書に出てくる母親もまさにそんな感じだ。
 生い立ちにコンプレックスのある母は、二人の娘に教育を受けさせ、ヨーロッパ留学もさせる。娘たちは結婚し、さまざまな問題を抱えつつも、表面的には幸せそうに暮らしていた。しかし、五十代になったころ、一人暮らしの母にさんざん振り回されることになる。怪我(けが)をした母に付き添い、毎日差し入れをし、あげくは実家を片付けて売却、母が介護付きホームに入る資金を作る。これだけでも大変そうだが、ホームに入ってからも次々と問題が起きる。
 物理的な困難だけではない。娘たちはそれぞれ、母に抑圧された記憶を抱えて生きている。ことに、母の世話を主に任されてしまう次女は、少女時代に姉に比べて粗末にされた思い出に苦しみ、父をないがしろにした母の身勝手な行動をいまでも許せない。老いた母と向き合うことは、娘の人生の総括にもつながっていく。
 端々に、どきっとするような言葉がある。たとえば、「老いて重荷になってきた時、その母親の死を願わずにいられる娘は幸福である」。母に呪縛された娘たちの苦しみは、単純には解決されない。とはいえ、母をあっさりと切り捨てることもできない。そんなことをしたらしたで、良心の呵責(かしゃく)に苛(さいな)まれるのだ。内心に「エレクトラ」的怨恨(えんこん)を抱えつつ、介護を尽くそうとする葛藤の大きさ!
 他人事のように書いてきたが、評者自身、母もあれば娘もいるため、ものすごく身につまされ、心えぐられる小説だった。介護、夫の不倫、経済的不安、自身の老いと体の衰えなどなど、この小説は「女はつらいよ」のオンパレードだ。ただ、ちまちました物語ではなく、生を肯定できる落としどころがあり、女の矜持(きょうじ)を感じさせる、共感できるエピソードがある。母娘三代の大河小説としても読めるし、介護・離婚・女の自立について考えさせてくれる、一つのモデルケースでもある。
 さらに本書には、「新聞小説」という仕掛けがある。この小説自体が新聞に連載されたものだが、百十年前の新聞小説である『金色夜叉』が絶えず意識され、主人公たちの生き方にも『金色夜叉』的な要素が盛り込まれている。愛をとるか、金をとるか。究極の問いに対するこの小説の答えはきわめて現代的でありつつ、深い。
    ◇
 中央公論新社・1890円/みずむら・みなえ 作家。『続明暗』で芸術選奨新人賞、『本格小説』で読売文学賞、『私小説 from left to right』で野間文芸新人賞、『日本語が亡びるとき――英語の世紀の中で』で小林秀雄賞。

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