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ミシェル・フーコー講義集成13 真理の勇気 自己と他者の統治2 [著]ミシェル・フーコー

[評者]柄谷行人(哲学者)

[掲載]2012年06月03日

[ジャンル]人文 社会

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■「真の生」開く哲学、ソクラテスに探る

 本書はフーコー最晩年(1984年)の講義録であり、その主題は「パレーシア」である。それはギリシャ語で「真理を語る」という意味だ。真理を語るといっても、いろんなケースがある。真理を語ることによって、相手との関係が損なわれたり、自分の身が危うくなる場合がある。パレーシアとはそのような場において真理を語ることである。だから、パレーシアには「勇気」がいる。
 なぜフーコーはこのことを考えるようになったのか。それは哲学の意味を問い直すためである。今日、哲学は知識を厳密に基礎づける仕事として存在している。それはプラトン以来の哲学がたどった道である。フーコーはそれに異議を唱える。哲学は「真の生」を開示するものであった、と彼はいいたいのだ。そして、彼は、「ソクラテス以前の哲学」に向かった同時代の傾向に反して、その手がかりをソクラテスに見いだそうとする。
 ソクラテスがパレーシアの人であったことは疑いない。彼はそのために死刑に処されたのであるから。しかし、彼がパレーシアの勇気をもっていたといえる証拠は、民会(議会)や学校ではなく、広場(市場)で真理を語ったことにある。彼は誰彼となく問答をして相手を怒らせ、殴り蹴られる目に何度もあった。なぜ我慢するのかと訊(き)かれて、「ロバに蹴られて告訴するだろうか」と答えた。プラトンの書いた「対話」にこんなものはない。そこでは、“ソクラテス”はいつもスムーズに人々を真理に導く。つまり、哲学はアカデミア(学園)の教えであり、もっぱら知的なものである。
 そのような伝統がソクラテスに由来することは否定できない。しかし、ソクラテスには別の側面がある。フーコーはそれを受け継ぐ者を、キュニコス派(犬儒派)のディオゲネスに見た。彼にはさまざまな伝説がある。彼を犬扱いした相手に、小便をかけてまわった。物乞いし、樽(たる)の中に住んだ。人前で自慰をした、等々。こうしたエピソードは、彼のスキャンダラスで戦闘的な言動がパレーシアであったことを物語っている。事実、プラトンは彼を「狂ったソクラテス」と呼んだ。
 フーコーによれば、キュニコス主義は古典古代において嫌悪されながら重視され続けた。そして、それはやがて、キリスト教の修徳主義(ドミニコ会やフランシスコ会)に取り入れられた。つまり、パレーシアや哲学的な「生」は、哲学よりむしろ宗教のほうに残ったのである。その後も消えることはなかった。近代では、それは芸術家の生き方や「極左主義」というかたちをとったと、フーコーはいう。30年後の今日、それは消えてしまっただろうか。
    ◇
 慎改康之訳、筑摩書房・6195円/Michel Foucault 1926〜84。フランスの哲学者・思想家。著書に『狂気の歴史』『性の歴史』など。本書はコレージュ・ド・フランスでの講義録(講座名は思考諸体系の歴史)の一部(邦訳は全13冊)。

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