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雲をつかむ話 [著]多和田葉子

[評者]松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学)

[掲載]2012年06月10日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■「犯人」たちに入り込んでいく

 「物事の漠然としてとらえどころのないさま」。「雲をつかむ」の語義として広辞苑にはこう書かれている。そんなタイトルにふさわしく、本書にはふわふわと浮遊するような不思議なエピソードが盛りだくさんだ。一方で、雲のようにもくもくとわき出す妄想から、地上にいてはけっして見ることのできない、新しい風景が広がっていく印象もある。
 ある日、見知らぬ男が玄関のベルを鳴らす。ふいに現れ、突然また立ち去っていったその男がある事件の「犯人」だったことが、後になってわかる。刑務所にいる「犯人」から、そのときの気持ちを綴(つづ)った手紙が届いたのだ。「犯人」とのこの遭遇と、果たせなかった再会が、さまざまな他の「犯人」たちとの出会いの記憶へと、語り手の「わたし」を導いていく。
 この著者には『容疑者の夜行列車』という作品もあるが、「容疑者」や「犯人」など、一線を越えた人、非日常の世界に属する人々に、どうしようもなく惹(ひ)きつけられてしまう気持ちは誰にでもありそうだ。長年潜伏していた指名手配の人物が逮捕、という報が流れると、その年月をどのようにして暮らしていたのか、想像を逞(たくま)しくせずにはいられない。本書でも、語り手の「わたし」は、どんどん「犯人」の気持ちに入り込んでいく。その人を「犯行」に駆り立てる原因になったストレスや違和感を想像し、その「瞬間」を思い描こうとする。
 現代は、自分が気づかないうちに「犯人」になってしまう時代なのかもしれない。ふと隣り合わせた人が「犯人」でないという保証もない。ただし、「犯人」即「罪人」というわけではない。裁く側に「罪」がある場合もある。
 漠然とした不安も、雲に喩(たと)えることができるだろう。白にも黒にも灰色にも見える雲のように、多様な読みの可能性を読者に開く小説だ。
    ◇
講談社・1680円/たわだ・ようこ 60年生まれ。作家。『雪の練習生』で野間文芸賞など。

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