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『草枕』の那美と辛亥革命 [著]安住恭子

[評者]出久根達郎(作家)

[掲載]2012年06月17日

[ジャンル]歴史

表紙画像

■奇抜な女の本当の姿、明らかに

 夏目漱石著『草枕』冒頭の一節。「情に棹(さお)させば流される」「兎角(とかく)に人の世は住みにくい」。三十歳の画家が東京を逃れて、那古井(なこい)温泉の志保田(しほだ)家に宿泊する。そこに那美(なみ)という、「悟りと迷(まよい)が一軒の家(うち)に喧嘩(けんか)をしながらも同居して居る体(てい)」の娘がいる。風呂上がりで素っ裸の画家に、初対面の挨拶(あいさつ)と共に、背後に回って着物を着せてくれる。画家は、どぎまぎしてしまう。
 彼女は短刀を素早く抜き、素早く鞘(さや)に納めたりする。結婚に破れ実家に戻った那美は、奇抜な言動をする女である。彼女にはモデルがいる。
 熊本五高教授だった三十歳の漱石は同僚と小天(おあま)温泉に旅行し、前田家に泊まる。この前田家の次女卓(つな)が那美である。卓の妹が中国革命運動を支援した宮崎滔天(とうてん)夫人だったので、卓のことは早くから知られていた。『草枕』の研究書には必ず取りあげられている。
 しかし、その生涯は略歴風に紹介され、伝聞が多く、「本当の姿」が見えなかった。何しろ本人が書いた文章や手紙が、一切無い。本書は卓の素顔を明らかにすべく資料に当たり、子孫のかたがたの証言を得て、まとめられたもの。卓がめざしていた生き方、理想としていた仕事などが、推理小説のように解明されていく。卓は晩年『草枕』のモデル問題で、出版社を訴える。その真意は、何だったのか。宮本武蔵の真筆『五輪(ごりん)の書(しょ)』を所蔵していた金持ちの前田家。お嬢様の卓は三度破婚、上京し、のちに民主主義革命を起こす孫文や黄興(こうこう)ら中国人留学生の世話をする。時には彼らの母親に変装して、尾行を煙(けむ)に巻いた。
 親分肌でこせつかぬ卓の性格は、奇妙なことに漱石夫人とそっくりだった。晩年の漱石は卓と再会する。そして。『草枕』冒頭の「情に棹さす」の棹の字は文豪の隠語、と某高校生の感想文にあった。漱石は卓に木(気)があった。ために流された、と。面白い!
    ◇
白水社・2205円/あずみ・きょうこ 読売新聞記者を経て演劇評論家。著書『映画は何でも知っている』など。

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