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翻訳に遊ぶ [著]木村榮一

[評者]小野正嗣(作家・明治学院大学准教授)

[掲載]2012年06月17日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■言葉をつなぐ橋ができるまで

 翻訳者ほど文学に奉仕する者はいない。異なる言葉を生きる書き手と読者をつなぐ大切な架け橋。橋から見える風景にひたすら心奪われている僕らではあるが、ふと足下の深淵(しんえん)に気づき、橋に畏敬(いけい)と感嘆の念を覚えることがある。
 ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』、バルガス=リョサの『緑の家』、ボルヘスやコルタサルの短篇(たんぺん)集などスペイン語文学の傑作を次々と翻訳してきた木村榮一というこの巨大な橋はどんな構造をしていて、どうやって作られたのだろうか?
 さぞやハイテク満載の橋かと思いきや、これが職人の手になる実に人間臭いものなのだ。『罪と罰』を読んだとき、榮一少年は作品から発する「白熱する強烈な光」に包まれるのを感じる。だが文学に取り憑(つ)かれ、スペイン文学研究の道に進んだ著者は、決して優等生でもなければ、最初から翻訳が得意だったわけでもなかったというのだ。
 訳文の日本語を「クサい」だの「リズムがない」だのカミさんにさんざん言われ、むっとしつつも、作者の言葉を読者に正確に伝える「目立たない黒子」となるべく地道な努力を重ねる修業時代。無理のないペース配分で、コマ切れ時間も無駄にせず、毎日決めた分量をコツコツ訳し続けること。わからない細部に拘泥するのではなく、作品の全体像をつかみ、文脈に部分を位置づけること。本書には具体的な翻訳技術だけでなく、どんな知的作業にも応用可能な知恵が詰まっている。
 翻訳をしていると、登場人物たちが動きはじめ、ともに同じ世界を生きている気がすることがあると著者は言う。羨(うらや)ましい。この人にとっては文学と生きることは同じことなのだ。そのことは、この橋を吊(つ)る綱、つまり洋の東西を問わず敬愛する人たちの言葉と親しげに縒(よ)られながら紡がれる本書の言葉から伝わってきて、僕らの体を揺らすこの喜びの波動からも明らかだ。
    ◇
岩波書店・2520円/きむら・えいいち 43年生まれ。翻訳者。神戸市外国語大名誉教授。

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