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ひさし伝 [著]笹沢信

[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)

[掲載]2012年06月24日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■自筆年譜のずれに創作の秘密

 ストリップ劇場でコントを書いて笑いの歴史を変え、放送作家としてテレビ創成期を支え、劇作家として多重構造の言葉遊びで人物の生を多様に描き、奇想天外な小説で日本のありかたを深く構想、その上で社会に対しての発言も積極的だった井上ひさし。
 その多彩な才能はどこから生まれたのか、そもそもどのような人生を送っていたのかを仔細(しさい)に、しかも読みやすく追っていくのが本著である。
 井上は山形県で生まれ、父は農地解放運動などで何度も検挙されるうちに亡くなり、母と流浪の生活をしながら東北を移動して、やがて弟とともに児童養護施設に入る。ぼんやり知っていた事実も、くわしく調査して書かれてあると改めて感慨深く、その後物書きになっていく裏にどんな信念と努力と反骨精神があったのかがわかると、井上作品に再び触れたいと感じる。
 だが、特に芝居ではもう井上の目が光っている公演はない。それが“消えもの”だからこその魅力でもあるが、同時代に生きていて観(み)ていない作品が幾つもあるのは切なく、悔しい。だからこそ、こうした評伝がそれぞれの芝居の構造や雰囲気、劇評を残してくれることに意義がある。
 もうひとつ面白いのは、本著冒頭でも述べられているのだが、井上自身が書いた「自筆年譜」が本評伝におおいに参考にされていることで、しかしそこには他の事実とのずれが多いというのである。
 本人が書いた年譜と、他人の証言のずれ。むしろ事実のわからない部分をたどって評伝を読むことでこそ、井上ひさしの創作の秘密、癖、動機が見えてくるのではないか。
 実際、多くの箇所で著者は井上の考え、生き方に共感を寄せ、彼であればこうだったろうと推測する。とすれば、この大著もまだ井上ひさしの一面に過ぎないのだ。別の誰かによる井上の、まったく別の面の伝記に向けて本評伝は重要な基礎となる。
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新潮社・3150円/ささざわ・しん 42年生まれ。山形新聞社で長く文化欄を担当。98年に退社後、出版社を設立。

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