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恩地孝四郎 一つの伝記 [著]池内紀

[評者]松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学)

[掲載]2012年07月01日

[ジャンル]アート・ファッション・芸能

表紙画像

■「温和な革新者」の創作の秘密

 美しい本である。「本は文明の旗だ。その旗は当然美しくあらねばならない」と述べた恩地にふさわしい。カバーは両面カラー印刷で、真ん中の数センチを開けて上下から折り返されている。カバーに印刷されているのは恩地の印象的な二つの作品、「赤について」と「自分の死貌(しにがお)」。
 この「自分の死貌」の版画と詩の話から、評伝は始まっている。19世紀末の東京に検事の息子として生まれた恩地孝四郎が、美術に目覚め、竹久夢二に影響を受け、仲間たちと一緒に版画と詩歌の雑誌を立ち上げて、新しい世界を切り拓(ひら)いていく。日本で誰よりも早く抽象画を手がけ、版画で独自の世界を創(つく)りだす。「一版消滅法多色摺(ず)り」という言葉を本書で初めて知った。一度摺った後に原版を削り、別の色をのせて摺るやり方。版画でありながら一点一点が違う作品を生み出す、実験的な創作法なのだそうだ。
 恩地は装丁家としても名をなし、たくさんの本を手がけると同時に、自らが撮った写真で『博物志』も編んだ。洒脱(しゃだつ)なエッセーがつけられている。さらに作詞・作曲もおこなったと聞くと、その多才ぶりに目の眩(くら)む思いがする。
 戦前のドイツでは、総合芸術学校「バウハウス」に集った芸術家たちがジャンルを超えたさまざまな実験的な試みをおこなっていたが、そんな芸術的交流が、一人の人のなかで実現していたような趣がある。「バウハウス」はナチスにより追放の憂き目に遭うが、恩地孝四郎はきな臭い時代の動きから距離を保ちつつ、自分の芸術の世界を拡(ひろ)げていくとともに、後進の育成にも努めた。骨太で、地に足のついた創作の人だったようだ。
 本書は、「温和な革新者」への共感とリスペクトに溢(あふ)れ、恩地の創作の秘密に鋭く迫っている。「版画の青春」の章で解説されている、油絵と版画の違いも興味深い。版画というジャンルの可能性に目を開かれた。
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幻戯書房・6090円/いけうち・おさむ 40年生まれ。ドイツ文学者。著書に『ゲーテさんこんばんは』など。

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