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燃焼のための習作 [著]堀江敏幸

[評者]小野正嗣(作家・明治学院大学准教授)

[掲載]2012年07月08日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■寄り添う言葉に耳を傾けて

 〈透明性〉に取り憑(つ)かれた社会では、〈謎〉は解明されるためだけにしか存在しないかのようだ。だから、すぐに正解を欲しがる人には、運河のそばの狭い雑居ビルの4階にあるあの探偵(?)事務所を訪れるのはおススメしない。
 何しろ、そこにいる枕木という男は、砂糖とクリープを入れたネスカフェを飲みながら依頼人の話をていねいに聞いてはいるが、哲学的というか雲をつかむような話ばかりするからだ。そこに鄕子(さとこ)さんという感じのいいアシスタントが始終茶々を入れてくる。
 ところが、この二人のやりとりはなぜか心地よく、離婚した妻と長男の消息の調査を依頼に来たはずの熊埜御堂(くまのみどう)氏はいつしか来訪の目的を忘れ、枕木が経験してきた事件とも言えない事件の顚末(てんまつ)を語るよう促している。たえず「スイッチバック」を繰り返す会話の流れがクリアになることはなく、それをさらにかき混ぜようと、空までもどんよりと黒雲に覆われ、激しい雷雨を降らせる始末なのだ。
 自然、その三人と同様に読者は、高架下に暮らすホームレスの老人伊丹さんの安否を気遣い、老人を探すタクシー運転手枝盛(えもり)からの連絡を待ちつつ、枕木がかつて手掛けた不思議な依頼について語る言葉に耳を傾けている。それは、家政婦だった亡くなった母親と画家の男との間に何があったのか知りたいという息子からの依頼だった。では、その手がかりとなる「燃焼のための習作」とは何なのか?
 この小説の言語は、薄いが断じて透明ではない皮膜のように読む者の意識にぴたりと寄り添い、透明さや即時性に囚(とら)われた言葉が忘れさせる皮膚と心の襞(ひだ)の感覚を回復させる。消え去らず微細な陰影を震わせながらいつまでも残る、それ自体〈謎〉としか形容しえないこんな言葉が書けるのは、「他者の話に耳を傾けることは、自分の記憶の声を聴き取ることに等しい」と知るこの希有(けう)な作家だけだ。
    ◇
講談社・1575円/ほりえ・としゆき 64年生まれ。作家、仏文学者。『河岸忘日抄』『なずな』など。

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