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東京プリズン [著]赤坂真理

[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)

[掲載]2012年07月15日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■忘却された歴史、文学でとらえる

 「文芸」連載当時から圧倒的な異彩を放っていた『東京プリズン』が大著としてまとまり、その水準の高い仕掛けの緻密(ちみつ)さ、重みの全貌(ぜんぼう)をこの世にあらわした。
 エピグラフにはこうある。
 「私の家には、何か隠されたことがある。そう思っていた」
 隠されたことのひとつは、現在40代半ばを迎えた主人公、女性作家の過去であり、例えば思春期に米国東海岸に突然留学させられた理由が、母から明瞭に語られてこなかった事実への疑問である。
 そしてもうひとつは、日本という“家”が戦後、自らどのようにして戦争責任をとらえたのか、あるいはなぜ問題点を忘却したまま経済的な繁栄だけを目指して復興し、やがてバブルを迎えて不況に至りながら、今なお精神的な支柱を失っているのか、だ。
 個人史と世界史の双方を緊密なひとつの物語として語ってみせるために、著者は小説ならではの機能を惜しみなく用いる。
 そのひとつが時を超えてつながる電話であり、時には1980年のメイン州にいる15歳の「私」が、離婚などを体験して今は一人で生活している2009年の「私」にコレクトコールをしてくる。過去の自分と向き合う「私」はあくまで彼女の母を装う。つまり自分の母を演じることで、やがて主人公は少女時代の「私」を通して母を理解していくことにもなるだろう。
 他にも「私」は様々な幻視をする。実際の母親に電話をしながら母しか知らない過去に入り込む。そのSF的な仕掛けによって、主人公は母が東京裁判の資料翻訳をしていた時の様子を“知る”。
 一方で米国に留学させられている過去の「私」は、授業の一環として「天皇の戦争責任」をディベートしなければならなくなる。周囲にほぼアメリカ人しかいない状況で、少女は天皇とは何かを自分の言葉で言わなければならない。
 ただし、窮地に陥った少女の「私」は一人ではない。幻視の力で出会う人々がおり、何よりも母親の証言を得て人生の理解を進めつつある現在の「私」とつながっている。これこそが文学でしかなし得ない歴史のとらえ方である。
 ラストに行われる少女の「私」による壮絶な大演説は、天皇論、文明論の核心に触れ、敗戦によって日本が失うべきではなかったと「私」が考えることを強く訴える。
 その「私」の中には過去と現在の自分だけでなく、「すべての、声なき人びと」が含まれる。いわば「私」は彼ら“英霊”の通訳となって言葉をほとばしらせるのだが、その時同時に「私」はかつて東京裁判で翻訳をした母の身体を逆向きに経験してもいるはずだ。
 これは世界文学である。今すぐ各国語に翻訳して欲しい。
    ◇
 河出書房新社・1890円/あかさか・まり 64年生まれ。作家。95年に「起爆者」でデビュー。2000年に『ミューズ』で野間文芸新人賞。『蝶の皮膚の下』『ヴァイブレータ』『コーリング』などの小説のほか、新書『モテたい理由』などがある。

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