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核エネルギー言説の戦後史1945—1960 「被爆の記憶」と「原子力の夢」 [著]山本昭宏

[評者]中島岳志(北海道大学准教授・南アジア地域研究、政治思想史)

[掲載]2012年08月26日

[ジャンル]科学・生物

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■軍事・平和利用、互いの機動力に

 戦後日本は、広島・長崎への原子爆弾投下の経験から、原子力への恐れと平和の願いを抱いてきたはずだった。しかし、被爆の記憶は原子力の夢へと接続する。この逆説は一体、どのようにして成立したのか。
 終戦直後、日本の知識人は原爆を唯一保有するアメリカによる平和を期待した。アメリカが世界の警察の役割を担い、戦争を克服するというヴィジョンは世界連邦構想と連動していた。背景には、「世界政府」の必要性を訴えたアインシュタインの影響があった。
 人々は様々な希望を原子爆弾に仮託していった。その中心は、「豊かさ」実現のための核エネルギーというものだった。「原子力の平和利用」という考えを推進したのは湯川秀樹だった。1949年11月、湯川がノーベル賞を受賞すると日本国内は沸きたち、彼が唱えた原子力の善用というパラダイムが浸透する。
 しかし、この頃から原爆の軍事利用への批判的言説が高まった。ソ連の原爆保有が公開され、アメリカの核兵器独占が崩れると、原爆による平和という構想は瓦解(がかい)した。1950年には朝鮮戦争が勃発。トルーマン大統領が、原爆使用もあり得ると発言したことで、原子兵器全面禁止を主張する平和運動が高揚した。
 しかし、この流れは「原子力の夢」を逆に加速させた。言論界では原子力の軍事利用への批判が高まる一方で、原子力の平和利用への希望が語られた。この両者は矛盾として並列していたのではなく、「互いが互いの機動力」となって展開していった。
 1954年には第五福竜丸事件が起こった。事件を報じた『読売新聞』は、「恐ろしいもの」を「すばらしいもの」に転化しようと訴え、「原子力の夢」を語った。事件の地元・焼津市議会は声明を決議したが、その中には「原子力を兵器として使用することの禁止」と共に「原子力の平和利用」が掲げられた。原水爆禁止署名運動も原子力の平和利用を歓迎し、「原子力の夢」の膨張を後押しした。
 1955年に成立した第三次鳩山内閣では、正力松太郎が原子力担当大臣に就任。以降、国家による核エネルギー研究開発体制が確立していく。1956年に原子力研究所の予定地が東海村に決定すると、水戸市内では「原子力ようかん」が発売され、観光客が殺到する「東海村ブーム」が起こった。
 戦後の日本人は被爆の記憶とともに、原子力の夢を抱きしめた。この進歩と成長という戦後的パラダイムを超克しない限り、脱原発の未来を手繰り寄せることはできないだろう。将来を見つめるための足場となる重要な一冊だ。
    ◇
人文書院・2520円/やまもと・あきひろ 84年生まれ。日本学術振興会特別研究員。京都大・立命館大非常勤講師(現代文化学、メディア文化史)。論文に「『夕凪の街 桜の国』と被爆の記憶」「科学雑誌は核エネルギーを如何に語ったか」など。

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