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タイガーズ・ワイフ [著]テア・オブレヒト

[評者]小野正嗣(作家・明治学院大学准教授)

[掲載]2012年09月30日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■勇猛な想像力で普遍性もつ異郷

 読後、吠(ほ)えたくなった。あまりにも悲しいから。なのに腹が立つほどパワフルで魅惑的だから。
 作者のテア・オブレヒトは、旧ユーゴスラビア出身で思春期にアメリカに移住した女性作家。デビュー作の本書で、25歳にして英語圏の重要な女流文学賞であるオレンジ賞を受賞した。
 すべての小説の核には作者の体験があるとはいえ、移民系の作家が英語で書く文学は、どうしても自伝的な要素が強くなる。苦労と困難に満ちた、自身や親の世代の移民体験を作品として昇華する。あるいは英米の読者には異質な世界、異なる文化的伝統を持つ〈自分の土地〉の物語を書く。
 本作は後者に属するが、この書き方の強みは、距離と非母語=英語を介することで、故郷を離れた作者にとって〈自分の土地〉が〈異郷〉となることだ。それが作品に普遍性を与える。もはや存在しない国家出身の作家には、この異郷感覚はより切実であろう。本書にはユーゴという国名は一切出てこない。都市名や人名、描かれる文化的歴史的背景から、戦争で昨日までなかった国境が引かれ、同国人が突然外国人になった東欧の国が舞台だとわかるのみだ。
 物語が始まるのはまさに、主人公の医師ナタリアが、この新しい国境線を越えようとしているときだ。医療支援を行うため隣国に向かう途上、彼女は心から敬愛する祖父の死を知らされるのだ。
 トラを見るために幼いナタリアを日課のように動物園に連れて行った、やはり医師だった祖父は胸ポケットにいつもキプリングの『ジャングル・ブック』を忍ばせていた。このトラへの深い愛情はどこから来ているのか? 彼が隣国で死んだのはなぜか? ナタリアの国境を越える旅は祖父の過去を遡(さかのぼ)る旅となり、それが土地の伝承と歴史を辿(たど)り、分断された国の過酷な現実と向き合う旅ともなる。
 破天荒な二つの物語が祖父の人生を決定づける。辺境の山奥だがオスマン帝国以来の歴史に翻弄(ほんろう)されてきた小さな村で、幼い祖父が出会った「トラの嫁」の逸話。そして祖父が人生の折々で邂逅(かいこう)し、『ジャングル・ブック』をめぐり賭けをした「不死身の男」の逸話。
 村の無愛想な肉屋、謎めいた薬屋、トラ退治に来た猟師などの忘れがたい人物たち。包囲下のサラエボとおぼしき都市での祖父と不死身の男との最後の出会い。全編に死が満ちた本書は、死者とどのように別れを告げ、どのように共に生きていくかについての書でもある。張りつめた悲しさと物語の快楽の共存。異なる言語、習俗、宗教といった異質な要素を共存させていた土地の夢を、若い小説家は瑞々(みずみず)しい、そしてトラのような勇猛な想像力で引き継いだのだ。
    ◇
藤井光訳、新潮クレスト・ブックス・2310円/Tea Obreht 85年、ベオグラード生まれ。92年にユーゴスラビアを離れ、のちにアメリカに移住。現在はニューヨーク在住。2011年のオレンジ賞を最年少で受賞。全米図書賞の最終候補作にもなった。

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