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晰子の君の諸問題 [著]佐々木中

[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)

[掲載]2012年09月30日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■散文と詩の間、交錯する言語

 『夜戦と永遠』という大著でデビューした哲学者・佐々木中は旺盛に創作し続ける。
 「行こう、君と一緒なら」と始まる小説は、もはや佐々木文体とも言える見慣れぬ単語の衝突に満ちており(「常闇〈とこやみ〉が毛羽立ちぬらつく染みにじんだ暁鼠〈あかつきねず〉によごれ」)、散文と詩のあわいを行き来するのだが、今回はそこにライトノベルのような現代口語と批評文さえもが混交する。
 ここで呼びかけられた「君」とは誰なのか。小説内にいる人物か。それとも読者である我々か。その問いがすでにタイトルの一部である“君の諸問題”なのだとも言える。
 そもそも語り手はほぼ冒頭で「君は読み間違うだろう」と書く。なぜならこれは「一度きりの書き損じなのだから」と。であれば、この小説は出会うごとに常にアクシデントのように意味を勃発させる文の集積である。
 そこに晰子があらわれる。一万年ぶりに訪れた氷河期、夏の来ない季節に。彼女は例えばまとった服に関して「フリフリじゃないっ」などと現代的な言葉でしゃべる。同時に彼女は語り手と同居する家で、ドイツ語詩人パウル・ツェランの論文を書いている。
 確かな身体の感触を持った女性像である。小説はこうした“複層的な言語”の中を生きる通常の女性を扱いにくい。だが、本著は晰子のツェラン論を大幅に引用するなど、階層の異なる言語を大胆に交錯させて筋を進める。
 ツェランは晰子が考察する他者「君」へと詩をもって対話を続ける。晰子がそれを断絶させるまで。そして小説自体は切ない事実を告げながら、またも「行こう。君と一緒なら」と宣言するに至る。
 ただ、今度の呼びかけが語り手からのものか、晰子のものかはわからない。確かなのはそれが「様々な喪失の只中(ただなか)で」残った言語であることだけだ。つまり、呼びかけられた「君」は“あの日”以来の我々でもあろう。
    ◇
河出書房新社・1575円/ささき・あたる 73年生まれ。作家、哲学者。『切りとれ、あの祈る手を』など。


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