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奇貨 [著]松浦理英子

[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)

[掲載]2012年10月21日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■負の感情を糧とする人間こそ

 寡作の著者の五年ぶりの小説がやっぱり面白い。
 中年男と三十代の女が同居して三年になる。だが、男・本田は女性自体に強い性欲を抱かず、糖尿病によって勃起も十全でない。一方の七島美野はレズビアンで、同僚の寒咲晴香を恨んでいる。中途半端にその世界に興味を持っただけで自分と性交し、以後無視を決め込むからだ。
 ここで著者をデビュー以来彩る“性嗜好(しこう)の多様なありよう”についてのみ語れば、作品の面白みを閉じてしまう。
 むしろ今回のテーマが“恨み”であることは冒頭から明快である。本田と七島は恨みという負の感情を肯定して意気投合し、暮らすに至る。本田にとって、七島の感情を追体験することが刺激であり、生き甲斐(がい)となっていく。
 七島の恨みの理由もまた明快だ。「うすらぼんやりとした欲求にまかせて他人を慰みものにしちゃいけない」と彼女はいう。倫理的である。
 その七島の前に同じレズビアンだが肉体関係を持たない友人・ヒサちゃんが現れる。彼女らが仲睦(むつ)まじく電話で話す姿に、本田は別の負の感情である嫉妬を覚え、ある悪質な行為に手を染めてしまう。
 じきに行為は露見し、七島は同居の解消を宣言する。だが、重要なのは七島が本田を恨んでいないことだ。例の倫理で言えば、本田は“はっきりした欲求で他人を知ろうとした”のだ。
 欲求は新しい状況を生む。七島は別居の前にヒサちゃんと本田と三人で他意なく話す機会を作る。話題となるいつもの寒咲晴香への恨みは、より多角的に生き生きと語られ、七島の感情をあぶり出す。
 それは冴(さ)えない中年男・本田の、単純な男女の性関係にとらわれない精妙な嗜好のおかげでもある。「七島、目の前のその中年、負の感情を糧とする人間こそ、かけがえのない『奇貨』なのだぞ!」と作品に呼びかけたくなる。
 他に鮮烈な初期短編所収。
    ◇
 新潮社・1365円/まつうら・りえこ 58年生まれ。作家。『親指Pの修業時代』『犬身』など。

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