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拉致と決断 [著]蓮池薫

[評者]渡辺靖(慶応大学教授・文化人類学)

[掲載]2012年11月04日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■極限の24年間、圧巻の心情描写

 何度も胸が締めつけられた。著者の境遇に自分を置こうと想像しても、あまりに過酷な現実を前に、つい本能的に思考回路を遮断してしまう。それでも読み続けた。
 本書は北朝鮮に関する稀有(けう)な手記である。しかも言葉の一つ一つに拉致被害者として過ごした24年間の歳月が凝縮されている。
 飢饉(ききん)の後、都会の高層アパートの自室トイレで豚や食用犬を飼育する世帯が多かったことなど、北朝鮮の日常から先軍政治の実態、電撃帰国の舞台裏まで、衝撃的な事実が次々と明かされる。
 とりわけ自身の心模様の描写には心を揺さぶられる。
 対岸の中国までわずか3メートルの川べりに立った日のこと。招待所で偶然目にした拉致被害者家族会の写真のなかに両親の姿を見つけた日のこと。「たった一度だけ、いっそのこと戦争が起きたらいいと思った」日のこと……。
 北朝鮮をめぐる壮大なレトリックが世界を飛び交うなか、極限状態にあった著者を支えていたのはかくも小さく脆(もろ)い心情だったとは。
 「絶望に陥っても、それよりさらに絶望的な状況を想定しながら、自分を慰めようとする」という一文はあまりに圧倒的だ。
 自分でマージャンパイを作り、夫婦で楽しんだことなど、微笑(ほほえ)ましいはずのエピソードにも目頭が熱くなる。
 前作『半島へ、ふたたび』と比べると、より具体的で踏み込んだ記述が目につく。
 しかし、まだ書けないこともあるのだろう。他の拉致被害者への言及はほぼ皆無。北朝鮮の体制内部に関する分析にも極めて抑制的だ。
 ただ著者は、いまだ北朝鮮に暮らす拉致被害者とて、先に帰国した著者たちの現状は知っているはずだと結んでいる。そう願いたい。
 そして、彼(か)の国の若き指導者には日朝国交正常化のための勇気ある決断を期待したい。
    ◇
 新潮社・1365円/はすいけ・かおる 57年生まれ。新潟産業大学専任講師。著書に『夢うばわれても』など。

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