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日本小説技術史 [著]渡部直己

[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)

[掲載]2012年11月25日

[ジャンル]文芸

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■異次元的な体験 作品の核心つく

 坪内逍遥『小説神髄』から横光利一『純粋小説論』まで、半世紀にわたる文学作品を「技術」というテーマで語り抜く。つまり本書は、これまで“何が語られてきたか”のみを扱ってきた近代文学史に対し、“どう語られてきたか”を徹底して読みとる。「技術以外の何が小説にあるのか?」と、冒頭から我々を挑発しながら。
 まず著者は、逍遥がその前近代性を批判した曲亭馬琴の小説制作術「稗史(はいし)七則」のうちの「偸聞(たちきき)」から話を始める。歌舞伎や黄表紙、いやそれどころか逍遥自身の小説にさえ「偸聞」は横溢(おういつ)する。我々も時代劇などで観た「話は全部、そのフスマの陰で聞かせてもらった」というパターンだ。
 むろんここには、同じ話を繰り返さずにすませるための「省略」という技術的要請がある。だが、著者はその先にスリリングな小説論を用意している。作品は読者によって読まれているのだから「フスマの陰で聞かせてもらった」のは読者でもあるのだし、いわば同時に登場人物も“話を読んでいる”と著者は考えるのである。
 その時、小説という空間には我々読者の身体が半分ほどめり込んでいると言ってもいい。また登場人物も半身を現実の我々のそばに現しているのかもしれない。そうした異次元的な体験が読むことであり、そもそも作家は作品の最初の読者なのだから、その異次元性は書くこととも直結している。
 一方、逍遥のごく近くにいた二葉亭四迷はこの技術を徹底的に避け、同時に「奇遇奇縁」や「夢」といった古い技法を捨て去って『浮雲』を書いた、と著者は喝破する。そして時間をおいて書かれた『浮雲』第三編で、四迷は“話者の分裂”という現代の実験小説でも容易に真似(まね)出来ないハイテクに挑戦し、作品を未完で終わらせざるを得なくなった、と読み解く。
 こうして技術という視点から鮮やかに縦横に動く著者の筆は、さらに樋口一葉の、それまでの作家たちからは明らかに分断された「不意」なシーン作りの妙を指摘し、テクストを震動させる分裂的な力に改めて驚嘆してみせる。
 大著はユーモアを交えながら、きびきびと鴎外、独歩、漱石、芥川、谷崎など大家たちの作品の核心を突き、と同時に、“ひとたび「私」と書きこめば、その「私」は「語る私」と「語られる私」に分裂する”という指摘など、小説のツボを惜しげもなく開陳していく。
 最後に著者は、技術とは「創造にまつわる」ある本質の異称だと告白するに至る。だからこそ小説は……と本書は滋味深い小説愛にあふれたフィナーレを迎えるのだが、それは五百ページを超える論考を読み通した者だけが味わうべき一文だろう。「偸聞(たちきき)」は不可。
    ◇
 新潮社・3570円/わたなべ・なおみ 1952年東京生まれ。文芸評論家、早稲田大学文学学術院教授。主な著書に『私学的、あまりに私学的な』『かくも繊細なる横暴——日本「六八年」小説論』『不敬文学論序説』『中上健次論——愛しさについて』など。

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