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ことり [著]小川洋子

[評者]小野正嗣(作家・明治学院大学准教授)

[掲載]2012年12月09日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■片隅に生きる慎ましい存在たち

 我々は小鳥のさえずりを美しいと聴き入っても、その声を発する一羽一羽の物語を想像するまでには至らない。小鳥たちはかくも我々の身近にありながらかくも名もなき存在である。だが我々一人一人の生も同じではないか?
 本書は「小鳥の小父(おじ)さん」と呼ばれる独居老人の死から始まる。近所の幼稚園の鳥小屋をボランティアで掃除していた小父さんの過去が、その存在は知りながら、誰も名前も素性も知らない老人の物語が明らかにされていく。
 小父さんにはずっと一緒に暮らしていた兄がいた。日課のように幼稚園の鳥小屋の前に行き、毎週水曜に近所の薬局で棒つきキャンディーを買っていたこの兄は、不思議な言語を喋(しゃべ)り、弟以外の誰とも意思疎通できなかった。
 兄はどこかに問題を抱えていたのだろうか? だが小父さんは、兄は「小鳥と同じように皆が忘れた言葉を喋っている」だけだと考えて納得するのだ。では小父さんのほうがちょっとヘンなのか?
 両親の残した家にひとり暮らし、バラ園のあるゲストハウスで管理人として働き、図書館で鳥に関連する本だけを借り、鳥小屋を掃除するという決まりきった暮らしを続ける小父さん。図書館司書とのあいだに淡い恋も生まれかける。だが、近所で女児の行方不明事件が生じると、周囲はこの身寄りのない独身男性に疑いの目を向け始める……。
 庭の荒れた古い家、ゲストハウスの屋敷や図書館に漂う密室的な怪しさ。小父さんがチョコを食べながら、それをつまむ司書の指まで食べた気になるフェティッシュな描写。この世の片隅に生きる慎(つつ)ましい存在たちの世界は、その底知れぬ不気味さも含めて、どれほど豊かで複雑な小宇宙であることか。この小説の言葉が、淡い温(ぬく)もりと哀(かな)しみを湛(たた)えた透明な光を放って震えているのは、それが小鳥たちが中空に綴(つづ)った儚(はかな)き言葉を書き留めたものだからだ。
    ◇
 朝日新聞出版・1575円/おがわ・ようこ 62年生まれ、作家。『博士の愛した数式』『ミーナの行進』など。

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