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冷血〈上・下〉  [著]高村薫

[評者]中島岳志(北海道大学准教授・南アジア地域研究、政治思想史)

[掲載]2013年01月20日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■言葉寄せ付けぬ、むきだしの生命

 東京の住宅地で、一家惨殺事件が起こる。犯人はネットで知り合った男性2人。あやふやな苛立(いらだ)ちと無根拠な昂揚(こうよう)感の中で殺人を犯す。明確な犯行理由はない。すべてが行き当たりばったり。いったいなぜ2人は、いとも簡単に残酷な殺人犯となったのか。
 逮捕された犯人に迫るのは、合田刑事。事件の検証は緻密(ちみつ)で、犯行時の微細な行動までもが明らかになる。しかし、捜査は行き詰まる。いくら供述をとっても、犯意が見当たらないのだ。
 犯人は言う。「歯が痛かった」「ずるずると勢いで」「何も考えていなかった」「目が合ったから」……。どれも、裁判で通用する言語になっていない。これでは調書は作れない。尋問は暗礁に乗り上げ、空転する。しかし、犯人たちが何かを隠しているそぶりはない。嘘(うそ)の気配もない。なのに、なぜ事件が起きたのかがわからない。
 合田は「司法の言葉」の限界に直面する。そもそも人間の行動に、合理的な根拠などあるのか。世間が理解できるような筋道など、本当に存在するのか。
 しかし、刑事裁判では常に「理由」が問われる。「真の動機」がなければ、最終的な解決には至らない。すると、無理な作文が生まれ、ありもしない物語が構成される。常識の及ばない反社会的人格として、辻褄(つじつま)を合わせる。これは一体、何なんだ。これで解決したことになるのか。
 合田の問いは、次第に自己へと向けられる。自分の行動や人生に、明確な目的は存在するのか。自己の生の意味を、調書や判決文のように表現できるのか。
 問いは、事件から人間存在の本質的な方向へと脱線していく。すると次第に、自己の根拠のあいまいさが露(あら)わになる。追及のベクトルがねじれる。
 人は「なぜ生きているのか」を簡単に言葉にはできない。明確に表現しようとすると、どうしても空虚になり、嘘くさくなる。わかりやすさを追求すると、強引な単純化が生じ、本質がより空洞化してしまうのだ。
 しかし、人は生きている。そして、間違いなく死ぬ。そのプロセスには、抽象化された意味を超えて、「むきだしの生命」が存在する。生の叫びが存在する。
 物語は、人間の本源に迫りながら、圧巻のエピローグを迎える。犯人に死期が迫ると、生の衝動が疼(うず)き始める。「生きよ、生きよ」という声が聞こえてくるのだ。
 身もふたもない世界に、我々は否応(いやおう)なく生きている。その存在の事実をどう引き受けるべきか。読み終えてから、しばらく胸の震えが止まらなかった。
 生の意味を問う傑作だ。
    ◇
 毎日新聞社・上下各1680円/たかむら・かおる 1953年生まれ。商社勤務を経て作家。『マークスの山』で直木賞。主な著書に『照柿』『レディ・ジョーカー』『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳(ひ)く馬』など。

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