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虫樹音楽集 [著]奥泉光

[評者]松永美穂(早稲田大学教授・ドイツ文学)

[掲載]2013年01月20日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■カフカ「変身」、ジャズで変奏

 カフカの『変身』は、読む人の想像力をかき立てる小説だ。すでにたくさんの文章がこれについて書かれてきたし、作品に触発された絵画も演劇も映画もある。音楽についてはどうなのだろう。『変身』には主人公の妹がバイオリンを弾く場面があるが、作品全体から聞こえてくる音とは? 本書は、『変身』のヴァリエーションをジャズで奏でるすばらしい小説集。活字のあいだからミステリアスなサックスの長音が聞こえてくるようだ。
 本書は語り口の違う九つのテクストから成っており、解説風の文章やジャーナリストの報告もあって、どこまで実話なのか、モデルはいるのかと詮索(せんさく)したくなる不思議な物語だ。中心になっているのはイモナベと呼ばれるサックス奏者。全裸や白塗りで聴衆の前に登場し、「変身」したグレゴール・ザムザが自分の部屋の窓から虫の目で外を眺める場面を再現しながらコンサートを続ける奇矯な演奏家(といっても1970年代半ばに公の場から姿を消し、多摩川にかかる橋の下で演奏を続けているらしいという設定なのだが)。イモナベはやがて完全に虫の世界に取りこまれていくように見えるが、さらにイモナベに共感するピアニストや「ザムザ」という名を持つアメリカのミュージシャン、亡命したロシア人生物学者、天体の音楽を受信する拠点としての「虫樹」などが出てきて、話は広がっていく。
 木や人間の表皮に文字が刻まれる話はカフカの『流刑地にて』を想起させるが、宇宙にまで範囲を広げて「純粋言語」や「純粋音楽」が構想されており、そのスケールに圧倒される。と同時に、「虫樹」の音楽にシンクロする者たちが地上で繰り広げるシーンは狂気に満ちた一種の終末を提示している。笑うべきか、凍りつくべきか。結末にいたっても深まる謎に、衝撃が走る。
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 集英社・1575円/おくいずみ・ひかる 56年生まれ。「石の来歴」で芥川賞。『神器ー軍艦「橿原」殺人事件』

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