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ターハル・ベン=ジェッルーン「火によって」書評 今を生き、死ぬ者に捧げる物語

評者: いとうせいこう / 朝⽇新聞掲載:2013年01月20日
火によって 著者:ターハル・ベン=ジェッルーン 出版社:以文社 ジャンル:小説・文学

ISBN: 9784753103058
発売⽇:
サイズ: 20cm/126p

火によって [著]ターハル・ベン=ジェッルーン

 モロッコ出身にしてフランス語で書く作家、ターハル・ベン=ジェッルーンは11冊もの日本語訳を持つ、人気のある文学者だ。
 夢幻的でエキゾチックなアラブの物語を紡ぎながら、著者はもう一方でフランスでの移民差別をノンフィクションとしてえぐるなど、社会的な視線も保持してきた。
 そのふたつの志向の延長線がまさに激しい火を散らして交わったのが、本書『火によって』というきわめて短く強い物語と言える。
 主人公はムハンマドという、アラブで典型的な名の青年。大学を出たが家の貧しさを変えることは出来ず、亡父のように荷車を引いてその日の稼ぎを得ようとする。
 だが、賄賂を払わない人間、もしくは学があって社会運動に身を染めた過去を持つ者を警官は徹底してマークし、気分次第でいじめ抜く。
 これ以上、筋書きを追うことはやめよう。いたってシンプルだから。ともかく物語の根底には、2010年のチュニジアで社会的仕打ちへの抗議のために実際に焼身自殺した青年がいる。彼の死に共感して“火によって”怒りを表出する者があとを絶たず、チュニジアからエジプトへと影響して「アラブの春」を導いた。
 本書自体には国の名前は一切出てこない。まるで神話のように削(そ)がれた描写で町の活気を描き、親子の情愛があらわされ、弾圧の不当さを訴えかける。短いから、覚えて語る者も存在し得るだろう。
 ベン=ジェッルーンは新しい世紀の“真実の神話”を、自らの社会的立場を明らかにしながら書いた。むろんその後シリアの例でもわかる通り、紛争の泥沼化は続いている。民主化運動が絶対的に善であるかどうかはわからない。
 だが、著者はそれを承知で貧者の抵抗を描いた。神でなく人であるこの作家は、視点の有限性を引き受けた。今を生き、死ぬ者に物語を捧げた。私はその“火”に共感する。
    ◇
 岡真理訳、以文社・1995円/Tahar Ben Jelloun 44年生まれ。『アラブの春は終わらない』など。