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完全なるチェス―天才ボビー・フィッシャーの生涯 [著]フランク・ブレイディー

[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)

[掲載]2013年05月05日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■謎多き流転の人生、棋譜のように記す

 稀代(きだい)の天才チェスプレイヤー、ボビー・フィッシャーは奇人とも言われがちな人生を送った。ともかく謎が多い。平気で都合何十年も世界から姿をくらました。そして9年前、実は日本にも長く滞在していたことがわかった。成田空港で逮捕されたからである。
 本書は空白の多いボビー・フィッシャーの歴史を綿密にたどり、出来る限り内面に迫ろうとした本だ。誰もわかり得なかった履歴をよくもここまで調べ上げてくれたものだと驚かされる。
 母親レジーナがホームレスの状態で産み落とした男児、ボビー・フィッシャーは6歳の頃、姉から1ドルのチェス盤を買ってもらい、自分自身と対局を重ねていく。
 やがて棋譜の本を手に入れたフィッシャーは、なんと1年後、有名なチェスクラブに会員として認められる。7歳児が、だ。前代未聞のことであった。
 そこからの驚くべき栄光は本書でつぶさに追って欲しいが、彼は29歳にして当時ソ連のスパスキーと死闘を繰り広げ(試合の条件に関してもフィッシャーは細かく闘争し、なかなか会場のアイスランドに行かなかった)、ついに世界チャンピオンとなる。
 しかし3年後、彼は世界チェス選手権の条件に異議を唱え、王者の称号を放棄。そこから20年近く、隠遁(いんとん)生活に入ってしまう。同時に自分にもユダヤの血が入っているはずなのに、徹底的な反ユダヤ主義者になり、過去の試合の過程から反ソ連主義者になる。
 政治を意図せざるか否か、突然フィッシャーは1992年、20年の沈黙を破って再びスパスキーと対戦。彼は49歳であった。しかし試合の場所がセルビアであり、ユーゴ紛争においてある種の政治勢力の宣伝になりかねなかった。
 試合はアメリカ政府から禁止される。だが、フィッシャーは意に介さない。チェスは行われる。以来、彼は母国の敵として追われる。大統領令を破った者として。
 その後また始まる流転の中で、フィッシャーがどのような生活を送っていたのか、日本滞在も含めて筆者はその死までを愛情をもって書き記す。まるで長いゲームの棋譜のように綿密に。
 だが、これを読み終えた者はより深い疑問へと導かれるだろう。
「彼の生き方はわかった。だが、なぜそうだったのだろう?」
 それはまるで、チェスのプロブレムのようである。何手かで詰む問題。考えれば考えるほど、我々はチェスの奥行きに魅了され、脳の働きが拡大するのを実感する。
 理解しがたい人生。しかしそれを何らかの信念と共に生きた者がいる。ボビー・フィッシャーはいまや、他者を考えるための、ひとつのプロブレムである。
    ◇
 佐藤耕士訳、文芸春秋・2625円/Frank Brady 34年、米国生まれ。60年に編集者として「チェス・ライフ」誌を創刊。若き日のフィッシャーを始め、バーブラ・ストライサンド、オーソン・ウェルズなど多くの著名人の評伝がある。

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