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「朦朧」の時代―大観、春草らと近代日本画の成立 [著]佐藤志乃

[評者]横尾忠則(美術家)

[掲載]2013年06月23日

[ジャンル]アート・ファッション・芸能

表紙画像

■厳しい批判 やがて礼賛へ

 誰が言い出したか「朦朧(もうろう)体」。日本美術院・岡倉天心の肝煎りではじめた横山大観、菱田春草らの日本画の新様式。形態(事物)のエッジを曖昧(あいまい)に暈(ぼか)すことで空気や光の表現を試みるがその評価は最低最悪。怪奇的で今にも化け物が出そう。“濁っている”“汚い”“不明瞭”、そんな批判が「朦朧体」という言葉を生んだ。
 ではターナーの傑作は全部朦朧体じゃないですか。批判は“汚い”だけでなく日本画の西洋化が自国の美術の喪失になると言う。そんな伝統主義者の批判に屈しない春草は「考えを画(か)く」と主張することで正統派西洋の写実至上主義と真っ向から対立。
 絵画の革新的な動きは文学界、思想界とも同調。朦朧体批判は「神秘趣味」「夢幻派」の泉鏡花、夏目漱石をも巻き込むが、このことは日本文学の「長所」でもある。こうした傾向は「文明開化以後の西洋合理主義への反発、反省」となる一方、「朦朧」礼賛にもつながる。
 鏡花の怪異譚(たん)の数々、漱石の『吾輩(わがはい)は猫である』の文中「霊の交換をやって朦朧体で……」云々(うんぬん)とか、『草枕』では「朦朧たる影法師」など「朦朧」の言葉が目立つ。このように「朦朧」は明治30年代以後の日本文学・美術と切り離せない。美術での「朦朧体」は神話や仏教を主題にするが、批判は相変わらず、稚拙で奇異と片付けられる。が、時代や社会の変化の波に「朦朧」批判もやがて失速。それにともないナショナリスト大観は「魂の抜けた」西洋美術の価値は「零」と切り捨て、「朦朧」は次第に生気を取り戻す。
 以後「朦朧体」は西洋との対立の中でギクシャクしながら皮肉にも西洋絵画と融合して今日に至り、現代美術の中にわれわれは「朦朧」の亡霊をしばしば垣間見ることができる。このモーローとしたテーマを多角的に研鑽(けんさん)した著者の粘着力と力量に感服!
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 人文書院・3780円/さとう・しの 68年生まれ。横山大観記念館学芸員、立教大学講師(近代日本美術史)。

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