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なぜ人間は泳ぐのか?―水泳をめぐる歴史、現在、未来 [著]リン・シェール

[評者]荒俣宏(作家)

[掲載]2013年06月23日

[ジャンル]歴史

表紙画像

■水と人間の驚くべき雑学百科

 著者はごくふつうの女性スイマー。70歳を前にしてヨーロッパとアジアをつなぐヘレスポントス海峡6・5キロの横断泳に挑んだ。その訓練の間に聞き知った「水泳と人間の歴史」や、水泳に関する驚くべき雑学が、本書を完璧な水泳百科に仕立てた。都会の黒人女性が水泳をしない理由の一つに、苦労して伸ばした縮れ髪を濡(ぬ)らしたくない思いがあること、水着の試着に抵抗がある女性の気持ちなど、水が苦手なカナヅチ組の本音まで探っている。
 まずはご多分に漏れず、水泳の起源にかかわる恋愛神話がある。大昔レアンドロスという若者がヘレスポントス海峡の対岸に住むヘロという巫女(みこ)に恋をした。彼は毎夜海峡を泳ぎ渡って彼女と密会するようになる。しかし嵐の夜に若者は溺死(できし)し、悲しんだヘロも塔から海に身を投げたという。西洋ではこの海峡を泳ぎ渡ることが英雄の勲章となったが、中世以後水に入ることが禁忌とされ水泳の習慣も消滅した。だが、水泳をギリシア文明の遺産と崇拝する詩人バイロンが1810年、横断泳に成功し、詩才よりもこの偉業を誇りとしたことなどで、水泳愛は復活する。
 西洋の泳法は古代から平泳ぎ一辺倒であったが、19世紀半ばにアメリカ先住民からまったく異質な泳法がもたらされ、水面を這(は)うように泳ぐので「這う(クロール)」と名がついた。船舶事故などで溺死者が多かったのと、海水浴が健康にいいと言われだした時期とも重なって、水泳は瞬く間にひろがった。アメリカの歴代大統領が素っ裸で水泳を楽しんだ逸話も興味ぶかい。一方、女性は「陸上よりもっと大げさな衣裳(いしょう)」で体を覆うことを条件に水泳が許されていたが、アネット・ケラーマンが勇敢にもレオタードだけの姿で登場した結果、泳ぎやすい水着が女権拡張のシンボルともなったという。では、水泳百科を書き上げた著者は海峡横断に成功したのか?
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 高月園子訳、太田出版・2520円/Lynn Sherr ニューヨーク在住の放送ジャーナリスト・作家

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