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世界を回せ(上・下) [著]コラム・マッキャン

[評者]小野正嗣(作家・明治学院大学准教授)

[掲載]2013年07月21日

[ジャンル]文芸 ノンフィクション・評伝

表紙画像

■綱渡りへの視線、境遇越えつなぐ

 1974年8月7日の早朝、マンハッタンの今はなき世界貿易センターのツインタワーの間で綱渡りした男がいた。地上400メートル(!)に張られたワイヤーの上を歩いたのは、フランス人綱渡り師のフィリップ・プティ。だが本書は彼の物語ではない。彼に注がれた驚愕(きょうがく)の視線、言葉、吐息と混じり合い、ある意味で彼を包み支えていた空気を、あの日共有していた人々がむしろ主人公なのだ。
 じじつ各章は、それぞれが独立した物語として読める。深い傷や悔恨を心に抱えた人物たちの視点から書かれた人生の物語を、中空の小さな一点(プティ)が、いわば世界の中心となって奇蹟(きせき)的に結び合わせる。その世界は悲しく切なく、強く抱きしめると壊れてしまいそうなほどはかなく美しい。
 小説が展開される時代、アメリカではベトナム戦争により多くの若者が命を落としている。戦死した息子を持つ母親の会を通じて知り合う白人のクレアと黒人のグロリア。プティが綱渡りを決行した日、マンハッタンの超高級街の豪奢(ごうしゃ)なマンションに暮らすクレアを、ブロンクスの荒廃した公営アパートで生活するグロリアが訪問する。目にも明らかな階級と貧富の差が、同じ傷を持つ者同士を結びつける絆を分断しようとする。
 奇(く)しくもその日、地方判事であるクレアの夫は、逮捕されたプティの審理の直前に、グロリアの隣人である売春婦ヘンダーソンの審理を行っている。38歳にして二人の孫を持つヘンダーソンを苛(さいな)む悔いは、娘ジャズリンを自分と同じ暴力とクスリまみれの仕事につかせてしまったことだ。審理の直後、その娘に悲劇が……。
 グロリアがクレアに言うちょっとした冗談が、扉を開くように二人の心を通い合わせる瞬間は感動的だ。同じ時空間にありながら、天と地ほども境遇の異なる人物たちが生きる全く別種のリアリティを克明に描き出し、それらを一つにつなげる作者マッキャンこそ、魂の綱渡り師だと言いたくなる。
 プティはツインタワーの間を水平に渡ることで、人々の耳目を上空に向けさせ、天と地を結んだ。マッキャンもまた、ジャズリンら売春婦の生活改善に献身的に取り組むアイルランド人修道士コリガンが、天なる神への垂直的な愛と地上的・肉体的な愛との間で煩悶(はんもん)する姿を描くことで、どんな人間の魂のなかでも崇高さと凡俗さがつながっていることを示す。
 天と地、美と醜、善と悪だけではなく、ジャズリンの成長した娘の〈いま〉を描くことで、小説は過去と未来もつなぐ。世界は回り続ける。共存しえないものがそれでも均衡点を見出(みいだ)し、人間と世界への信を許してくれる恩寵(おんちょう)的な瞬間がこの小説には満ちている。
    ◇
 小山太一・宮本朋子訳、河出書房新社・上下各1995円/Colum McCann 65年、アイルランド・ダブリン生まれ。本書で2009年度の全米図書賞、11年の国際IMPACダブリン文学賞。フィリップ・プティは実在の人物。ほかの邦訳に『ゾリ』。

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