「私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について」書評 「我見られる、ゆえに我あり」
ISBN: 9784791767038
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サイズ: 20cm/220,6p
私たちが、すすんで監視し、監視される、この世界について [著]ジグムント・バウマン、デイヴィッド・ライアン
高速で移動する資本や情報、流動化する雇用のあり方などを踏まえ、現代社会の特性を、液状化する近代(リキッド・モダニティー)と論じたジグムント・バウマン。情報化とともに巧妙さを増す監視社会化の問題を論じたデイヴィット・ライアン。この二人の社会学者による、刺激的な対談書である。原題は「リキッド・サーベイランス」。監視(サーベイランス)が全面的に浸透した現代の社会状況を意味している。
かつて監視者とは、ジョージ・オーウェル「1984年」のビッグブラザーのごとき、プライバシーの収奪者とみなされていた。近代化の当初、監視の原理はもっと堅牢でその分目につきやすいものだった。この原理をミシェル・フーコーは「パノプティコン(一望監視システム)」と呼んだが、今やそれははるかに複雑で見えにくいものとなった。本書の眼目は、その見えにくさそのものへの問いである。
今や人々は自ら進んでプライバシーを明け渡す。たとえば注目を集めるため、購入記録を増やしてクレジットの利用金額を拡大するため、あるいはソーシャルメディア上で心地よい承認を得るために。情報技術の進展により接続過剰が常態となった現代。もはや秘匿に価値はなく、「我見られる、ゆえに我あり」なのだとバウマンは指摘する。
だがそうした社会状況は、人々の連帯に寄与する以上に、新たな斥力を生み出しているという。資力のない消費者の排除や、セキュリティー・システムに守られた高級住宅地に暮らす富裕層とそれ以外の貧困層の分断のように。監視の浸透は、異なる者同士の相互排除を増進させる。さらに、虹彩(こうさい)や指紋など生体認証システムの普及は、個々人の人間性を介さない選別を可能としていく。今やこうした監視の様態は、社会の存立基盤と化しているのだ。現代社会の問題を開示する、鋭利な切断面のような書。
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伊藤茂訳、青土社・2310円/Zygmunt Bauman,David Lyon それぞれ英国とカナダの社会学者。