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ギャンブラー・モーツァルト 「遊びの世紀」に生きた天才 [著]ギュンター・バウアー

[評者]横尾忠則(美術家)

[掲載]2013年09月22日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■社交の主役、ゲームの魔術師

 今まで読んだ何冊かのモーツァルトの伝記でも、彼の常軌を逸した遊びには面目躍如たる異端児ぶりに思わず瞠目(どうもく)してきたが、そんなモーツァルトの「遊び」の世界をさらに徹底的に眺めることで、〈遊ぶ天才〉を文化史的に、平易な文章で探ろうとするのが本書の狙いである。
 モーツァルトの生きた18世紀はそのまま遊びの世紀でもあった。全ての遊びに通じて社交の場の主役になり、舞踏会のハシゴを繰り返しながら貴族の家々を訪ね、人々の称賛と名声の輪の中をスイスイと魚のように泳ぐモーツァルトの華麗な姿がまるでロココ絵画のように彩られていく。
 遊びの達人モーツァルトは舞踏の名手であり、熱狂的なビリヤードプレーヤーでありカードプレーヤーでもある。「海千山千の不屈のゲームプレーヤー」のモーツァルトは遊びの森深く建造された魔宮に棲(す)む魔術師でもある。文化の中に遊びが存在するのではなく、遊びはあくまでも文化に先行しているとするホイジンガの哲学をそのまま先取りしているようなモーツァルトだ。
 遊びは真面目と対立する概念であり、私がツイッターを通じてしばしば芸術の遊戯性に触れる時、返送ツイートの中には、真面目を道徳的にとらえ、逆に遊びを不真面目な悪ふざけのように認識する人たちがいるのも事実である。私は、芸術家の遊戯性を排除した芸術作品は存在すべきでないとさえ思っています。
 遊びが日常生活からはみ出した存在であることを理由に悪(あ)しき文化とする傾向に対しては、抵抗しなければならないと思うが、一方では過剰な遊びを大衆文化の核として受け入れ、文化に先行した遊びを自由と勘違いして、いつの間にか創造の精神を喪失してしまっているような気がしないでもないのである。遊びと真面目の真の関係の回復のためにも今、本書を必要としたい。
    ◇
 吉田耕太郎・小石かつら訳、春秋社・4725円/Gunther G.Bauer 28年生まれ。ドイツの作家、研究者。

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