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サリンジャー―生涯91年の真実 [著]ケネス・スラウェンスキー

[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)

[掲載]2013年10月13日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■禁欲的な隠遁者、執筆と祈りの日々

 J・D・サリンジャー。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、ご存知(ぞんじ)『ライ麦畑でつかまえて』で全世界の反抗する若者たちに影響を与え続けてきた作家。斬新な口語体などを駆使し、ウィットと翳(かげ)りに彩られた作品を生んだ人。
 3年前、91歳で亡くなったサリンジャーはしかし、「禁欲的な隠遁(いんとん)者」としても神話化され、事実30代半ばにニューヨークからコーニッシュという田園地帯に越すと、人目を避けるように暮(くら)し、本に自分の写真が載ることも大げさな売り文句も嫌った。
 そしてついに40代後半からは著作を発表しなくなる。しかし、それでもサリンジャーが「老齢になるまで変わらない日課」として仕事場で毎日書いていた様子を本書は明かしている。沈黙の大作家は日々朝早く起き、ベンガルの聖者ラーマクリシュナの教え通り瞑想(めいそう)とヨガをし、発表しない作品を書き続けたのだ。
 珍しくサリンジャーが受けたインタビュー(とはいえ30分)から本書はこんな言葉を抜き出す。「発表しないとすばらしい平安がある。安らかだ。静かなんだ」。この不思議な境地は、別の箇所ではこうも書かれる。「仕事と祈りのふたつは区別がつかなくなっていた」と。では一体、サリンジャーはどんな小説を執筆していたのだろうか。
 著者はサリンジャー関係のウェブサイトを続けている大ファンで、作家の生い立ちからデビューに至る行程、デビュー後にも様々な雑誌に掲載拒否されたり、タイトルの勝手な変更をされたりしたことなどを細かく記録していく。
 そこにはサリンジャーが米軍諜報(ちょうほう)部員としてノルマンディー上陸作戦に参加し、独軍との最も過酷な戦いを強いられた部隊にいた時の模様も描かれる。すさまじい数の死者を作家は見たはずだ。
 戦火の下、サリンジャーは従軍作家ヘミングウェイに会いに行く。その記録は短いが興味深い。ヘミングウェイはのちにも戦争を多く語ったが、サリンジャーは「詳細はいっさい語らなかった」。軍人として実際戦った者は心に傷を負い、作品としてのみ外に出すしかなかったのかもしれない。
 本書はこうした示唆に富むが、作品すべてに関しても網羅的な紹介を怠らない。したがって「ライ麦」のサリンジャーしか知らない読者でも、人と作品の全体像を把握することが出来る。
 そしてなんと、本書には間に合わなかったが、サリンジャーの遺言により、未発表の5作が再来年から出版される報道がつい先日あった。5作の中では戦争も、東洋思想も、最初の結婚についても語られていると予想されるらしい。
 予習としても本書は有益だ。
    ◇
 田中啓史訳、晶文社・4830円/Kenneth Slawenski 米ニュージャージー州生まれ。04年にサリンジャーのサイトを創設。本書は10年に出版。ベストセラーとなり、12年度ヒューマニティーズ・ブック賞を受けた。15カ国語に翻訳、20カ国で出版された。

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