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死小説 [著]荒木経惟

[評者]横尾忠則(美術家)

[掲載]2013年12月08日

[ジャンル]アート・ファッション・芸能

表紙画像

■文字使わず遍歴つづる能の物語

 荒木経惟が「死小説」と題する小説を書いたというが文字は一字もない。だからといって小説ではないとは言えまい。著者の言いたいのは「視小説」ではないのか。写真も立派な視覚言語(ビジュアルランゲージ)である。
 撮った写真を順番に並べたら物語ができて「小説が生まれた」と本の帯で吐露する。
 荒木は「センチメンタルな旅」と題した自らの新婚旅行を暴露的に撮った写真集で話題になって以来、現在もまだ「センチメンタルな旅は終わっていない」と言う。
 ぼくはこの「死小説」を眺めながらあることにフト気づいた。つまり著者は能のワキであるということだ。ワキは旅をすることで異界に出合うのである。彼が旅先で出会った人の数は数え切れないほど多い。彼は同じ場所に留(とど)まることもあるが移動しながら見え隠れする人々を盗み見する。実はこの人々こそがシテ(霊)である。
 シテは一種の地縛霊で、常にその場所に留まる。その霊は荒木の中ではカダフィであったり淡島千景であったり、寛仁さまであったりサッチャーであったり、時には荒木夫人であるように、全て死者である。そんな死者にワキである荒木が接する時、ワキは自らを語ろうとしない。「荒木経惟」の名さえ無為の存在にしなければ異界と接触することはできないからだ。
 ワキである著者の写真の中の卑猥(ひわい)な裸婦たちは常に1カ所に留まり、あらわな舞を舞いながらシテとしての存在を、今なお如何(いか)に憂世(うきよ)に恋いこがれているかをアピールする。しかしすでにワキは自らを無化した存在である。
 「編集だとか、構成だとか、デザインだとか、そんなことはいっさいなし」でなければこの「死小説」の著者、即(すなわ)ちワキは無の旅人として遍歴を続けることはできない。
 著者のいう「センチメンタルな旅」はぼくには旅の僧が書いた(撮った)「死小説」という能の物語として映る。
    ◇
 新潮社・1995円/あらき・のぶよし 40年生まれ。写真集に『わが愛、陽子』『愛しのチロ』『さっちん』など。

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