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ひとりの体で(上・下) [著]ジョン・アーヴィング

[評者]いとうせいこう(作家・クリエーター)

[掲載]2014年01月19日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■過去形の甘さを引き出した傑作

 アメリカを代表する作家アーヴィングの長編がコンスタントに書かれ続けている。
 今回はヴァーモント州の小さな町に生まれたビル少年が、地域のアマチュア劇団に所属する家族(とはいえ、多くのアーヴィング作品に頻出するように実の父は“不在”なのだが)と共におおいに混乱しながら少しずつ年齢を重ね、やがて作家になっていく様子を丁寧に、しかも私小説めいた一人称で描く作品である。
 ビルは思春期にすでに男女双方に惹(ひ)かれている自分に気づく。彼は「男とも女ともセックスしたいという欲望」を持つのだ。ひとりの体で。
 そんな主人公の性的興味はまず図書館員ミス・フロストへと向かい、少年にとって小説そのものとの出会いが導かれる。劇団は母の次のパートナー、アボットを演出に迎えるから、そこでビルはシェークスピアやイプセンなどに触れ、広範な文学を身をもって“読んでいく”ことになる。
 さすがアーヴィング、登場人物は例外なく印象深く、女装好きのハリーお祖父(じい)ちゃん、憎まれ者のキトリッジなどが人生を色濃く生きる。中でもビルが焦がれるミス・フロストの性への手引きは苦くロマンティックである。
 そのミス・フロストの言葉を引いて、下巻でビルは言う。「それは私たちの物語だった——一緒にいられる時間があまりない、というのは」
 二人の関係が終わってしまう切なさを指しながら、ここで小説と読者の蜜月の終わりが示される。まさにそれは「私たちの物語」なのだ。
 実はもう十二分に老いている主人公は若かりし日々に繰り返し回帰し、自らを微笑(ほほえ)みながら見つめる。だから読者である我々もいつの間にか、ビルの少年時代を懐かしんでしまう。この「私たちの物語」を作る名人の技術と愛情!
 過去形そのものの甘さを存分に引き出した傑作。アーヴィング好きの私の中でも、これはたまらない一編だ。
    ◇
 小竹由美子訳、新潮社・各2100円/John Irving 42年生まれ。作家。『ガープの世界』など。

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