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失われた名前―サルとともに生きた少女の真実の物語 [著]マリーナ・チャップマン

[評者]角幡唯介(ノンフィクション作家・探検家)

[掲載]2014年02月02日

[ジャンル]ノンフィクション・評伝

表紙画像

■互いが慈しみあう生活を求めて

 英国に住む今は平凡な主婦となった女性の回想録だが、内容は驚愕(きょうがく)の一言に尽きる。
 マリーナ・チャップマンは自分が出生時に何と名付けられたのか知らない。名前だけでなく生まれた場所もわからない。5歳ぐらいの時に何者かに誘拐され、それ以前の記憶が残っていないからだ。
 誘拐された後、彼女はジャングルに置き去りにされた。花柄のワンピースを着たひとりぼっちの少女が何年も密林で生き延びることができたのは、ひとえにサルの群れと出会うことができたからだった。最初は同じ物を食べ、鳴き声を真似(まね)るなどしただけだったが、そのうち家族同然で過ごすようになり、サルの感情や言葉を理解できるようになる。ある時などサルは明確な意思をもって病気の彼女を助けたことさえあった。
 失礼かもしれないが、本書はまるでサルが書いた本のようだ。もちろん悪い意味ではなく視座がサルのそれと同じなのだ。彼女の描くサルは人間のように会話をし、愛情たっぷりで個性豊かだ。それは言葉を覚えたサルによるサルの生の報告であり、どんなに優れた研究者の本にもこんなサルは出てこない。一方、サルから見た人間の姿は残酷で獰猛(どうもう)で傲慢(ごうまん)で不条理だ。人間が現れた時、サルたちは恐怖に怯(おび)えて警戒するが、それを読むと動物にとって人間がどういう存在なのかよくわかる。
 それにしてもこれは本当の話なのだろうか。人間社会に戻った後も彼女の人生は売春宿に売られ、路上生活をし、犯罪者家族から命を狙われ……と転変を極める。居場所が変わるたびに別の名前を与えられる、そんな奴隷のような生活から何度も逃走を試みるが、それはただサルと暮らしていた時のような互いが慈しみあう、愛情のある生活が欲しかったからだった。
 14歳で初めて彼女はそれを人間から与えられるのだが、その件(くだり)を読んだ時は胸に熱いものがこみあげてきた。
    ◇
 宝木多万紀訳、駒草出版・1890円/Marina Chapman 50年ごろ南米で生まれる。現在はイングランド在住。

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