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自由か、さもなくば幸福か? 二一世紀の〈あり得べき社会〉を問う [著]大屋雄裕

[評者]萱野稔人(津田塾大学教授・哲学)

[掲載]2014年05月04日

[ジャンル]社会

表紙画像

■監視社会化を積極的に評価

 全ての人間の身体にGPS機能付きのチップが埋め込まれた社会を想定してみよう。GPSとは、人工衛星を用いてその対象が地球上のどこにいるのかを正確に測定するシステムのことだ。つまり、あらゆる人間がいつ、どこにいるのかがつねに測定され、コンピューターに記録される社会である。
 こうした社会では、犯罪が起こってもすぐに犯人は特定されるだろう。たとえ殺人犯が遺体からチップを取り除いて犯行を隠匿しようとしたとしても無駄だ。チップが取り除かれたときにそこにいた人間は特定されるからだ。生体反応によって稼働するチップならば、よこしまな人間が自分の身体からチップを取り除いた時点で、警察に取り締まられるだろう。
 究極の犯罪防止社会である。これによって私たちの治安は、完璧にとまではいえないにしても、かなりの程度保障されることになるだろう。もちろんこうした社会に対しては強い批判もあるにちがいない。究極の監視社会である、と。
 本書はしかし、そうした究極の監視社会を、正義にかなった、今後のありうべき一つの可能性として考察する。それも、自由と幸福はどこまで両立するかという19世紀以来の大問題を検討しながら、政治哲学的に考察しているのである。
 とまどう読者もいるかもしれない。なぜ究極の監視社会が正義にかなった今後の進むべき方向性になるのか、そこでは国家権力の専横によって人びとの自由は大きく損なわれるのではないか、と。当然の疑問である。
 とはいえ、監視によって犯罪が徹底的に取り締まられるとき、そこで損なわれるのは「犯罪をする自由」だけかもしれない。また、国家権力の専横といっても、究極の監視社会では権力の担い手もまた監視される。もしその担い手が記録された情報を不正に入手・利用しようとしたら、それすらGPSの位置情報とコンピューター上の記録で糺(ただ)されるだろう。
 それに、いまある全国の監視カメラのほとんどは実は政府ではなく民間によって設置されたものである。現在私たちの位置情報と行動をたえず記録している携帯電話のGPS機能、各種の交通カード、SNS、ネットショッピングのログ機能などもほぼすべて民間によって設置されたものだ。現実には私たちは政府以上に他人の行動を監視し、記録しているのである。監視社会の責を国家権力に帰すことはできない。
 こうした状況を踏まえつつ、監視の強化がもたらしうる可能性を積極的に評価しようとする本書の試みは、きわめて挑発的だ。それは同時に、監視技術がますます発達する今後の社会にとって避けて通れない問いかけでもある。
    ◇
 筑摩書房・1620円/おおや・たけひろ 74年生まれ。名古屋大学大学院法学研究科教授(法哲学)。『法解釈の言語哲学』『自由とは何か』など。

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