書評・最新書評

ハンナ・アーレント [著]矢野久美子 / 戦争と政治の間 ハンナ・アーレントの国際関係思想 [著]パトリシア・オーウェンズ

[評者]杉田敦(政治学者・法政大学教授)

[掲載]2014年06月01日

[ジャンル]歴史 政治

表紙画像

■世界の複数性、思考し続けて

 映画でも話題になった政治思想家アーレント。ドイツ哲学に学んだ後、ナチス迫害を逃れてアメリカに亡命した彼女について、簡にして要を得た評伝が出た(『ハンナ・アーレント』)。理論中心の従来のアーレント論とは異なり、本書では、2度の結婚の相手を含む友人たちとの交流が丹念に跡づけられる。厳しい条件の中で、人びととの具体的なつながりが、彼女にとっていかに大切であったかが読む者に迫ってくる。
 ところが、悲劇的なことに、ナチスの元高官アイヒマンの裁判をきっかけに、アーレントは、大事な友人たちのほとんどを失う。アイヒマンを「怪物的な悪の権化」と見なしたいユダヤ人社会の意向に背き、彼女が彼を「思考の欠如した凡庸な男」として描き、一部のユダヤ人のナチス協力にさえふれたからである。「ユダヤ人への愛がないのか」と非難された彼女は「自分が愛するのは友人だけであって、何らかの集団を愛したことは」ないと応える。
 彼女はユダヤ人を自認し、「ユダヤ人として攻撃されるならばユダヤ人として自分を守らなければならない」とつねに強調していた。しかし、人を特定の集合的なアイデンティティーと一体化させてしまうことは、一人一人の存在の独自性、彼女の言葉で言えば「世界」の「複数性」という最も大切なものを脅かすと考えたのである。
 従来、あまり紹介されてこなかったアーレントの国際政治論・戦争論を、現代の事象と関係づけて考察する本格的な試みが翻訳された(『戦争と政治の間』)が、そこでも鍵となるのは、複数性への彼女の関心である。
 20世紀には、政治の特徴を「敵対性」に見いだし、政治と戦争とを同じようなものとするカール・シュミットなどの見方が強まった。これに対しアーレントは、人びとが自らの独自性を言葉によって表現しあう場を、政治的な空間とした。そして、そうした空間にあらわれるものを権力と呼び、他者を支配する暴力と厳密に区別する。
 こうした暴力批判は、戦争批判に直結しそうにも思える。ところが、実際には彼女は、戦争を全否定する絶対平和主義とは距離を置き続けた。反ナチスなどのパルチザン闘争に加え、イスラエル建国のユダヤ軍さえ、一時は支持したのである。それは、ある人びとを根絶し、人間の複数性を否定しようとする「民族浄化」の動きがある以上、対抗的な戦争が正当化されうると考えたからであった。
 個々の判断の妥当性はともかくとして、民族や戦争といった概念が改めてせり出しつつある今こそ、物事の両面を思考し続けたアーレントの姿勢に学ぶものは多いのではないだろうか。
    ◇
 『ハンナ・アーレント』中公新書・886円/やの・くみこ 64年生まれ。フェリス女学院大教授。著書『ハンナ・アーレント、あるいは政治的思考の場所』。
 『戦争と政治の間 ハンナ・アーレントの国際関係思想』中本義彦・矢野久美子訳、岩波書店・4968円/Patricia Owens 75年生まれ。英サセックス大准教授。


関連記事

ページトップへ戻る