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身体巡礼 ドイツ・オーストリア・チェコ編 [著]養老孟司

[評者]隈研吾(建築家・東京大学教授)

[掲載]2014年07月20日

[ジャンル]医学・福祉 社会

表紙画像

■連続していた生死、共同体消えて分節

 こんなグロテスクな死体の処理があったのかと、驚かされ、背筋が寒くなった。ドライな火葬方法に慣れた現代日本人にはショックの連続である。ヨーロッパを代表する貴族ハプスブルク家では、心臓、内臓、それ以外の部位を丁寧に切り分け、3つの場所に保管した。なぜなら死体は死んでも「生きて」いて、物ではなかったから燃やせなかったのだと、解剖学者である著者は冷静に結論づける。各臓器の中には各機能が死なずに残っていると信じられていた。たとえば心臓には間違いなく心、精神が生きているはずだから、分離して、大事な場所に保管した。
 ハプスブルクの埋葬法は共同体が崩壊中途の、移行期の産物であると感じた。本書は、単なるメメントモリ(死を忘れるな)の書ではなくて、死のあり方、人間の死の受け入れ方の変遷を俯瞰(ふかん)して、整理してくれる。読み終わって、死の意味が腑に落ちて、僕自身、救われた。家族をはじめとする共同体が完全に機能していた時代には、人は死んでも、共同体の中では生き続けていたから、それぞれの個人は死を恐れる必要はなく、死体の保存にこだわる必要もなかった。マダガスカルでは、人は祖先になるために生きたので、死といわず、「祖先になる」といって、死をこわがらなかった。
 そのように共同体が強い時、死と生の境界は曖昧(あいまい)である。この日本でも江戸時代には、「死体の生死」は決定できなかった。自宅で医者にも機械にも頼らずに死んだ僕の祖父の死も、生と連続していて分節できなかった。
 しかし共同体という時間を超越した居場所がなくなって、生と死は分節され、人はさびしく死ななければならなくなった。老いて死ぬ人が共同体のかわりに何に頼るのかも、この本は教える。社会保障と立派なお墓である。
 しかし経済が成長し続けられなければ、社会保障は破綻(はたん)すると、著者は断言する。20世紀は、石油という偶然のおかげで、社会保障システムが機能し、人は共同体がなくても「死ぬ」ことが可能になった。しかし、石油がなくなったら、人はどうやって死んだらいいのだろうかと、本書は問いかける。
 立派な墓も、共同体が消えたことの補完物であった。共同体がしっかりしていれば、墓はどうでもよかったのである。墓の延長上に、建築や都市というモニュメントがある。本来の仏教は、墓を重要視しない。安らかに死ねない人が、立派な墓を作り、その延長として立派な建築を作るのである。安らかに死ねないから、立派な建築や、都市を作って、死を隠蔽(いんぺい)しなければならないのだと、僕は感じた。そのデザインにたずさわる、自分の人生も見返してみた。
    ◇
 新潮社・1620円/ようろう・たけし 37年生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。95年から東京大学名誉教授。『解剖学教室へようこそ』『日本人の身体観』『バカの壁』など著書多数。


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