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潜伏キリシタン―江戸時代の禁教政策と民衆 [著]大橋幸泰

[評者]三浦しをん(作家)

[掲載]2014年07月27日

[ジャンル]歴史

表紙画像

■曖昧な存在だった異端の信仰者

「江戸時代、キリシタンは徹底的に弾圧され、『潜伏キリシタン』は明治に至ってようやく堂々と信仰表明できたんだろうなあ」と漠然と思っていたのだが、それは非常に単純な物の見方なのだと気づかせてくれるのが本書だ。
 幕府や藩がキリシタンを警戒し、厳しく禁制したのは事実だ。厳しいがゆえに、「キリシタン」の実像に対する認識が曖昧(あいまい)化し(禁制によってキリシタンは圧倒的少数派となり、触れあう機会がほぼ皆無なため)、異端的なものはなんでも「切支丹」だと見なされるようになった。独自に加持祈祷(きとう)をしていたグループが、(私には、キリスト教とは全然関係ない宗教活動に思えるのだが)「切支丹」を自称したので処刑される、という事件も起こっている。
 一方で、「潜伏キリシタン」は牛肉を食べたり、クリスマスなどの信仰暦を維持したりしつつ、村の行事(お祭りなど)にも参加し、檀那寺(だんなでら)で葬式をあげ、と地域社会の一員として暮らしていた。
 当然、「あいつ、切支丹じゃね?」と詮議(せんぎ)される事態に陥ることもあったが、キリシタンと非キリシタンが、村内で代々協力して生活を営んできたことは、お上としても織りこみずみなので、「模範的な百姓だから」という理由でお目こぼしされた。為政者は、体制や社会秩序を揺るがす恐れがないと判断すれば、キリシタンを含む「異端」の信仰者の存在を許して(というか、見て見ぬふりをして)いたのである。
 ひとは、信仰心によってのみ態度を決定するわけではないし、「なにを信仰しているか」によってのみ相手を判断するのでもない。そこには、社会や経済の情勢、人間関係が複雑に影響しているのだ。
 近代化以降顕著な、「曖昧さ」を排除する傾向を一考するうえでも非常に有益な、「国家と民衆」、「公的抑圧と内的自由」の問題までをも視野に収めた一冊だ。
    ◇
 講談社選書メチエ・1782円/おおはし・ゆきひろ 64年生まれ。早稲田大学教授(日本近世史)。


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