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やや暴力的に [著]石原慎太郎

[評者]佐々木敦(批評家・早稲田大学教授)

[掲載]2014年08月03日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■生への執念で描く不可解な死

 富士山沿いの樹海で、年に一度の自殺者の捜索団を仕切らされる男が、ふとしたことから既に死んでいた男、つまり亡霊と行き交い、男の自殺に隠された物語を探り当ててゆく十年越しの中編「青木ケ原」を筆頭に、収録された六つの作品は、いずれも濃厚な死の匂いを放っている。五つの掌編から成る表題作にも、三人の男の長年の友情を回顧する「僕らは仲が良かった」にも、題名通りの夢日誌というべき「夢々々」にも、警官のひとり語りの「世の中おかしいよ」にも、末尾のごく短い「うちのひい祖父さん」にも、とにかく夥(おびただ)しい数の死者たちが登場する。病死、事故死、自殺、殺人、暗殺等々、死のヴァリエーションも実に多彩だ。やや極端に言えば、この一冊で描かれる人々のほとんどは、今はもう死んでいる。
 だが、膨大な死者たちを物語る作家の筆は、すこぶる健康なのだ。壮健、頑健と言ってもいい。彼は時に異様なまでに淡々と、時に意外なほどの憐憫(れんびん)を込めて、彼が出逢ってきた死を語る。そこには、彼や彼女は死んでいったが私はまだ生きている、という謳歌(おうか)とも、自分だけが生き残ってしまった、という慨嘆とも、全く異なる感覚が宿っている。それを仮に健康と呼んでみる。それは死の対義語でもある。とにかく私は健康であるので、こうして死者たちの挿話を書きつけているのだ。ここには無常観はない。ペーソスも存在しない。健康であるしかない者にとって、死は謎である。だがその彼の人生には、数え切れないほどの死が存在している。だから彼はいわば自分には不可解な謎を書きつけているのだ。
 しかしこの健康を生来の丈夫さと錯覚してはならない。「うちのひい祖父さん」は「生き抜くということは。わしの体験からのことだがね、執念というのは強くて美しいものだよ」と言う。執念こそ、死に対峙(たいじ)する健康のエンジンなのだ。
    ◇
 文芸春秋・1620円/いしはら・しんたろう 32年生まれ。作家。衆院議員。『太陽の季節』『生還』など。

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