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明治の「性典」を作った男―謎の医学者・千葉繁を追う [著]赤川学

[評者]本郷和人(東京大学教授・日本中世史)

[掲載]2014年11月09日

[ジャンル]歴史 ノンフィクション・評伝

表紙画像

■時代と格闘した人を再発見

 千葉繁といっても、あの高名なアニメの声優ではない。幕末・明治を生きた医学者であり、『造化機論』という本を訳出した。造化機とは生殖器のこと。性交を科学的に解明した日本初の本であり、男女の交わりを詳しく説明するとともに、自慰が有害であること、「交合の快楽は電気に基(もとづ)く」という「三種の電気説」などを説く。ポルノグラフィを題材として社会学の新地平を切り拓(ひら)いてきた俊英・赤川学は、本書において、生殖器に大まじめに取り組んだ明治の一知識人を追った。
 千葉は浜松藩に生まれ、父のあとを継いで藩医となった。明治維新時に千葉県の鶴舞に移住し、鶴舞藩の解散により井上家家臣の地位を失った。そこで彼は医師として神奈川県に出仕し、また病院に勤務する安定的な日常を得て、横浜医学界創成の中枢を担う。業務のかたわら翻訳した『造化機論』四部作はベストセラーとなった。
 千葉は自分の人生を積極的に語り残す人ではなかった。日記もなければ、写真もない。だから様々な工夫と手間が必要になった。残された数少ない手がかりを蒐集(しゅうしゅう)し、一つ一つを徹底的に洗いだし、赤川は千葉の事績を追いかける。その方法と経過が、極上のミステリーの如(ごと)くに、実にスリリングで興味深い。史料学・文献学・古文書学など、学問の区分を易々(やすやす)と越える、みごとな腕の冴(さ)えである。
 とはいえ社会学者を本質とする赤川は、問いかけるのを忘れない。なぜ、私たちは千葉を忘れてしまったのか、と。人間は社会の中でしか生きられない。だから社会が時とともに変化すれば、時代と懸命に格闘した人の足跡は、過去のものとして忘却される。ならば、千葉を捨て去った時代から更に時を経た私たちが、彼をもう一度発見することにも意味があるはずだ。その熱い訴えに、私は何度もうなずいた。赤川学おそるべし。異能の人というべきである。
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 筑摩選書・1620円/あかがわ・まなぶ 67年生まれ。東京大学准教授。著書『セクシュアリティの歴史社会学』など。

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