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大脱出―健康、お金、格差の起原 [著]アンガス・ディートン

[評者]水無田気流(詩人・社会学者)

[掲載]2015年01月11日

[ジャンル]経済

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■進歩と格差の間の終わりなきダンス

 風変わりな表題は、1963年公開の映画「大脱走」(The Great Escape)にちなんだもの。第2次大戦下、ドイツ軍の捕虜となった英米兵士たちが収容所地下にトンネルを掘り、脱走を図る物語だ。結末は、運よく逃げおおせたらしき一握りの兵士以上に、再び囚(とら)われ非業の死を迎える大多数の兵士たちに焦点があたる。世界では、「貧困と死」からの脱走をめぐり、この映画のような物語が進行していると著者は指摘する。「脱出した者のあとには取り残される者がいて、運は全員に平等に与えられるわけではない」。この世界の繁栄と進歩は脱走の機会を生み出したが、それをつかむための備えはすべての人々に平等に与えられるわけではないのだ、と。
 たしかに近代化以前に比べ、世界は物質的には豊かになった。人々の健康状態も改善した。平均寿命は延び、乳幼児死亡率は低下。医療技術の飛躍的な向上で、疫病や疾病の脅威も小さくなった。だが一方、格差の問題は厳然と横たわっている。それは経済的格差のみならず、「健康格差」の問題として、多くの人々を苦しめ続けている。著者はこれを「進歩と格差の間の終わりなきダンス」と呼ぶ。
 人類が、この脱走劇へと雪崩を打って参加しだしたのは250年ほど前からのこと。産業革命の号砲が鳴り響いた後の祝祭と悲劇は、その後の人類史に延々と刻まれている。著者は、たとえ成功する者が稀少(きしょう)であったとしても、脱走の魅力が薄れるわけではない点も指摘。格差の問題を単に批判するのでも、経済成長を全面的に肯定するのでもない。その構造や世界への影響力を、富と健康をキーワードに丹念に読み解いてゆく。
 「脱走」の機会は平等に訪れるわけではなく、むしろ近年拡大傾向にある。富裕国と貧困国の大きな差は成長度合いのばらつきにあり、後者の間では前者に比べ格差が大きい。たとえば、中国、マレーシア、シンガポール等では1960年から2010年の間に平均所得を7倍まで増やせるほどの成長率を見せた。だが、中央アフリカ、ギニア、ハイチ等では、2010年の方が半世紀前より貧しくなっている。HIV/エイズの蔓延(まんえん)したアフリカ諸地域では、近年平均余命も短くなった。飢饉(ききん)や紛争も依然世界から消えてはいない。
 これらは一部の不運な国々の、特殊な事例なのだろうか。映画「大脱走」が見せた一時の解放感同様、現在の世界の豊かさも一時的な救済にすぎないのかもしれない。新たな脱出は新たな格差を生む可能性もある。「それでも、そのような失敗もいずれは克服されると私は信じている。私たちは、過去にもそうしてきたのだから」との著者の言葉を、胸に刻みつつ。
    ◇
 松本裕訳、みすず書房・4104円/Angus Deaton 英国生まれ。米国プリンストン大学経済学部教授。2009年に米国経済学会会長。専門分野は健康と豊かさ、経済成長の研究。現在のテーマは富裕国と貧困国における健康状態の決定因子など。


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