小野正嗣「九年前の祈り」書評 読者の心を浸食する「リアス式」
ISBN: 9784062192927
発売⽇: 2014/12/16
サイズ: 20cm/221p
九年前の祈り [著]小野正嗣
表題作が今回の芥川賞を獲得した本書には四つの、すべてが大分県の「リアス式海岸が独特の地形を作る海辺の土地」を舞台とし、近い時を基点とする短編が入っている。
各短編は自在に語りの時間を飛び回り、過去、さらに過去、現在と次々に景色を変えながら、ひとつのテーマに寄り添った色を重ねていく。あたかも数々の入り江の脇の道路をゆっくりとドライブするように、文章はやがて懐かしい既視感を読者に与え始め、場面の突然の変貌(へんぼう)によって人生の影を印象づけもする。
こうして小野正嗣が語り手を変えながらひとつの土地の長い時間を遡行(そこう)し、現代の諸問題とつなぎ、移動していく方法を“リアス式”と呼ぼう。
表題作では、体が硬直して「引きちぎられたミミズ」のようになってしまう息子を持つ母親さなえが、「保守的な片田舎」に戻って家との軋轢(あつれき)に耐え、しかし片田舎だからこそ引き継がれて来たのであろう“妹(いも)の力”に励まされる。
みっちゃん姉(ねえ)をはじめとする近所の女性たちの、時にのんびりし、時に辛辣(しんらつ)なユーモアはさなえを抱きしめるし、突き放しもする。「おーとーし!」(恐ろしい)などと、土地のなまりを音としては外国語のように、しかし平仮名であたたかく表記する方法は、“リアス式”の骨頂だろう。それはクレオール文学が征服者の言語を換骨奪胎したのと同じ、発明的な工夫である(「おーとーし!」の翻訳を考えればいい。訳者もまた必ず新しい言語を発明せねばならない)。
4作目の「悪の花」では老婆・千代子が我々読者を自らの“入り江”に誘う。集落でタイコーと呼ばれる、おそらく心身に障碍(しょうがい)を持った者の訪れを千代子は待っている。現れないタイコーへ寄せる思いは慟哭(どうこく)として震え、読者の心を浸食する。すさまじい迫力で。
“リアス式”で描かれる世界には根底に悲しみがある。悲しみは重ねて語られることで風景として地にしみていく。
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講談社・1728円/おの・まさつぐ 70年、大分県生まれ。『にぎやかな湾に背負われた船』で三島賞。