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晩鐘 [著]佐藤愛子

[評者]本郷和人(東京大学教授・日本中世史)

[掲載]2015年02月15日

[ジャンル]文芸

表紙画像

■元夫にこだわる作家の心情とは

 私事で恐縮だが、家内は同級生で同業者(中世史家・東大教授)。みな「本郷には過ぎたる女性」と評する。加えて新年度から上司になる。その妻が、これ面白いわよ、とにやにやして奨(すす)めたのがこの本。にやにやの理由はすぐ分かった。
 老境にある作家・藤田杉はある日、畑中辰彦の死を報(しら)される。彼らは文学を志して青春の日々を送り、夫婦になって15年の歳月を重ねた。杉は作家として成功。かたや辰彦は売れずに実業界に転身する。だが、そこでもみごとに失敗し、莫大(ばくだい)な借金を作り、杉の原稿料を次々に巻き上げる。あげく、負債を分担するのは心苦しいと偽装離婚をもちかけ、杉がこれに従うとすぐに別の女性を籍に入れた。
 離婚後も杉は支払い義務のない辰彦の借金を背負い、がむしゃらに働いた(持ってけ! ドロボーの啖呵〈たんか〉がすてき)。辰彦はそんな前妻や娘と、悪びれる風もなく交流をもち続けた。やがて杉は借金地獄から何とか抜け出すが、気がつくと文学の師も仲間もみな亡くなり、辰彦も旅立った。晩鐘を聞きながら、彼女は考える。私の夫だったあなた、あなたは何者であったのか。
 でもなあ、とダメ夫のぼくは思ってしまう。「辰彦」は実はそこここにいるのではないか。辰彦はなまじ恵まれた境遇にいたから、大きなお金を動かすことが可能で、そのぶん破滅もまた大きかった。彼のようなコネをもたぬ男たちは、女に貢いだり、酒に溺れたり、ギャンブル(無計画な株取引を含む)にはまって、救いの手がさしのべられることもなく、小説のネタにもなれずにひたすら消えていく。いや、私がその一人ですと告白する義理はないのだが……。
 著者・佐藤愛子は91歳。文体はみずみずしく、昭和の世相の描写は的確である。畏(おそ)れ入るほかはない。それを認めた上で、ぼくは問いたい。そうまでして辰彦にこだわる藤田杉よ、佐藤愛子よ、あなたこそ何者なのか、と。
    ◇
 文芸春秋・1998円/さとう・あいこ 23年生まれ。作家。著書『戦いすんで日が暮れて』『血脈』『院長の恋』など。



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